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  • 執筆者の写真鈴木孝紀

「信仰の弁明」1ペテロ3:13-16(2021年2月27活動にて)

みなさんこんにちは。

今回は1ペテロ3:13-16のみことばを見ていきます。

タイトルは「信仰の弁明」です。


もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(1ペテロ3:13-16)



前回「善を行い、平和を追い求めろ」というタイトルで、御言葉を見ていきました。

ペテロは手紙全体を通して、クリスチャンがこの地上で受ける試練や苦難(特にこの手紙では「敵意」)について何度も触れています。14節でも「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。」と語りました。


またキリスト教の歴史を見ると、敵意を持つ人から信仰について問われることは珍しいことではありませんでした。

例えば、イエスの弟子たちを中心に記録している使徒の働きには、

「翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。彼らは二人を真ん中に立たせて、『おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか』と尋問した。」(使徒4:5-7)


「また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、ステパノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして偽りの証人たちを立てて言わせた。「この人は、この聖なる所と律法に逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」」(使徒6:12-14)



「翌日、千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人たちに訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を解いた。そして、祭司長たちと最高法院全体に集まるように命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせた。」(使徒22:30)

ペテロも含めたクリスチャンたちは、敵意によって信仰を問い詰められました。その回答次第では命の危険が当然ありました。ところがそんな経験をしたペテロは「人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。」と語るのです。


さらに続けて「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(15節)と言っています。

信仰について問われた時、そのことについて説明をする。

「あなたは何を信じているのですか。」

「あなたは何を希望としているのですか。」

「なぜクリスチャンになったのですか。」などなど切り口は色々でしょう。

尋ねられた時、「私は〜です」と語れるように準備をしておく。

信仰の弁明のために用意をするというのは、クリスチャンに与えられている役割と責任です。


峰町キリスト教会では、UCLAという3ヶ月ごとに様々なテーマを扱う学びのコースがあります。4月から始まる私のコースでは、ちょうど「信仰の弁明」について触れる予定です。特に「こういう理由があるからキリスト教は信じられないよ!」という答えづらい疑問に対して、どうやって説明できるのかという内容になります。


用意をするということは、そのために時間を割くということです。

よくわからないやーエヘヘではなく、時間をかけて調べて、自分なりに考え、そして祈りながらまとめていく。全部の質問に答えることは難しいでしょうが、少なくとも「あなたは何を信じているのですか?なぜ信じているのですか?」という問いに対する準備はしましょう。



ここで注意点。

信仰の弁明を誠心誠意に用意し、語ったとしてもその人が信仰を持つかは分かりません。

言い換えるなら、弁明に信じさせる力があるわけではありません。

信仰を持たせるのは神の力です。

「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(1コリント3:6)

「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8,新改訳第3版)


信じてほしいと願いながら弁明するのは当然良いですが、信じさせようと力んでも意味がありません。ペテロは弁明の語り方として「柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。」(16節)と私たちに伝えています。そしてそのような弁明の結果は、「そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。」となります。


私が信仰を持たない学生の時、相当な敵意を持ってクリスチャンに対して質問をしたことがあります。そのような質問に対して彼らは誠実に答えてくださり、今では御言葉通り、悪く言ったことを恥じています。


弁明は言葉ですが、同時に「善良な生き方」と言われているように生き方で信仰を表明する部分もあります。私たちが神様に与えられている信仰の弁明という役割・責任を、それぞれの人生を持って全うできますように。





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