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  • 執筆者の写真鈴木孝紀

「あなたがたは神の民」(栃木EMF6/27活動にて)

 みなさん、こんにちは。梅雨に入り、徐々に気温も上がってきましたがいかがお過ごしでしょうか。今年はマスク着用による熱中症の危険もありますので、お互い健康に気を遣いましょう。

 さて今回は、2章4-10節を見ていきます。このペテロの手紙第1は、言われない悪行や噂、悪意による非難といった苦難の中にあるクリスチャンを励ますために書かれました。

 ですから全体のテーマとして「苦難」が存在し、同時に「励まし」のメッセージが記されています。今日の箇所から、私たちも励まされて行きましょう。

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。(1ペテロ2:4-10)

 ペテロは4節でまず「主のもとにきなさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」と語りました。主イエスキリストの地上での人生はどのような印象でしょうか。多くの人々を癒し、奇跡を行い、悪霊を追い出した。しかしユダヤ教の律法学者や祭司たちからは疎まれ、最後は十字架によって処刑された。ただ単にここだけをみれば、なんとも報われない人生です。人に善を尽くしたにも関わらず、最後は「十字架にかけろ」と人々から罵られながら死んでしまった。4節で言われたように「人には捨てられた」、つまり必要のない、不要なものとされたわけです。

 しかしご存知のように、主イエスが十字架に架けられることは最初から決められていたことでした。私たちの罪の身代わりとなるために、傷のない小羊として血を流し、その命を神へと差し出す。主イエスは「選ばれた、尊い、生ける石」だったのです。6節にも「選ばれた石、尊い礎石を置く。」とイエスを指した預言が引用されています。こうして、私たちクリスチャンは主イエスを土台として、神に繋がり、また互いに繋がりあって1つの教会が形作られるのです。


 さて私たちにとって主イエスは「尊い、生ける石」ですが、そうでない人からすれば「つまずきの石、妨げの岩」(8節)となります。4節からこのような対比は何度も使われています。

 「人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石」(4節)、「より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった』」(7節)。

 ほかの箇所でもこうあります。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1:18)。

 ここでいっていることは非常に単純なことです。クリスチャンにとって主イエスは尊い存在でありながら、クリスチャンでない人にとってすれば無用の長物にしか思えない、ということです。理解できないからこその非難や偏見、また時に敵意というものが当時にクリスチャンにも、また現代の私たちにもあるのです。

 しかし9節「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」。ここでの「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」という呼称は、本来はイスラエルの民、ユダヤ人にしか適用され得ないものでした。しかし今や、キリストを信じる私たちもそのように神様から認められている、ということです。

 またそのような身分が与えられているのは、私たちをそのように変えてくださった神様をほかの人々に宣べ伝えるためでした。この地上を生きていく人生の全てを用いて宣教に携わる、というのが私たちに与えられた使命(mission)です。

 そして最後に、10節「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」とあります。ここから分かることは、私たちはキリストを信じる以前は神の民ではなかったということです。神の民ではない私たちにとって、イエス・キリストはどのような存在だったでしょうか。今のように価値ある物として映っているでしょうか。そうではなかったと思います。

 しかし今や神のあわれみによって、神の民に加えられた。身分がガラッと変わり、私たちの人生が向かう先も大きく変化したわけです。

 それはまだ信じていない人にも同様です。たとえ今は主イエスに興味がなく、価値を見出すことが出来てなかったとしても、神の啓示によって理解させられた時、主イエスへの見方は必ず180度転換します。


 すでに主イエスを知っている私たちは、神を喜び、また神に喜ばれる生き方を目指して生きましょう。人生の全てを用いて、信頼する主に礼拝を捧げる。み言葉にある通り「彼に信頼する者は、決して失望させられること」はありません。

 そしてまだ信じていない人々に対して、神様のあわれみを期待しましょう。以前の私たちがそうであったように、主のあわれみによって人は変えられます。私たちは自分たちに与えられた使命、主イエスを宣べ伝えることに期待を持って携われたらと思います。

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