私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。 1テモテ1:12-17
みなさんこんにちは。
今日は1テモテ1:12-17を見ていきます。
パウロは今日の箇所でまず、自分の過去について触れています。彼は非常に熱心なユダヤ教徒です。彼の自己紹介文として、「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」(ピリピ3:5-6)とあります。
またキリスト教徒を迫害することに熱心で、教会の人々を捕らえ、殺害することに熱意を燃やしていた人物でした。彼はそのことに対して「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした」と語っています(13節)。
パウロのこういった背景を知ると、彼の「私は罪人のかしらです」という言葉には重みを感じるでしょう。彼は自身の過去を振り返った時、「確かに私は罪人であった」と言えるだけの証拠が揃っていました。
しかし、ともすればパウロのこの発言は「昔、俺りゃあ悪くてよ」という飲み屋で語られるような武勇伝にも聞こえてしまいます。しかし15節、「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。」」と語っています。この話の強調点は「罪人はイエスによって救われる」です。
パウロは自慢話をしたいのではなく、「こんな俺でだって救われたんだ。神様のあわれみっつーのはどれだけでかいと思う」ということを伝えたいのです。
そしてパウロは自身が救われたことの意味について、「私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした」と語りました。
キリスト教の迫害者であったパウロにあわれみを与え、その罪を赦した意味は「イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例」とするためです。
「えー?パウロみたいなやつが救われるの?」と当時の人々は思ったでしょう。あまりにも衝撃的な内容です。仲間を殺してきた人が次の日には「私もクリスチャンです」と言い出したわけですから、当時の人々も最初は信じませんでした。
しかしパウロの手紙を読むと、彼が本当にクリスチャンであることがわかります。当初、多くの人々がパウロを拒否しましたが、一部の人々はパウロを受け入れ、彼を支えました。それはパウロに力があったのではなく、神様がパウロを通して栄光を現すために用意してくださった人々です。
よくある質問の中に「どんな人でもイエスを信じたら救われるの?」というものがあります。「はい」と答えると大抵「どんなひどい人でも?」とさらに質問されます。「例えばどういう人がひどい人ですか?」と聞くと、「人を殺したり、女性や子供を傷つけたり」と続きます。そういった質問の内容には心を痛めます。人が殺されたり、女性や子供が不当に傷つけられたりするというのは本来あってはいけないことですから。
しかしパウロを見たらどうでしょう。彼は殺人者です。女子供関係なく捕らえ、迫害に情熱を燃やした人物でした。ステファノを殺すことにも賛成票を投じ、キリスト教徒を迫害するためにダマスコに行きたいと志願する人物です。
どうでしょう。パウロがイエスのあわれみを受けるのなら、それ以降の人はあわれみを受けるといっても過言ではありません。
私たちが神様によって救われたのも、誰かにとっての先例となるためです。私たちに寛容を示し、私たちが救われたことは誰かの救いのために必ず用いられます。
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