みなさんこんにちは。今回は1テモテへの手紙1章8-11節を見ていきます。
私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。1テモテ1:8-11
今回触れられているのは「律法」についてです。
みなさんは「律法」に対して、どのようなイメージを持っているでしょうか。
よく「律法的」という言葉を聞きますが、あまり良い意味で使われていないように思えます。
では聖書は「律法」に関してどのように扱っているのか。
まず大原則として「律法は良いものである」ということです。
「律法が目指すものはキリストです。」(ローマ10:4)
「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)
このように律法は本来悪いものではありません。
しかしなぜ「律法=何となく悪いもの」というイメージがあるのでしょう。
それは私たちが律法を不適切に取り扱っているからです。
パウロは今日の箇所でこのように言いました。
「律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。」(8節)
言い換えれば不適切に用いた場合、律法は良いものではなくなるのです。
それでは2つのポイントを見ていきましょう。
① 律法は罪を指摘するためにある
9節「律法は正しい人のためにあるのではない」
正しい人とはイエス・キリストを信じる者を指した言葉です。
つまりクリスチャンの為に律法があるわけではない、ということです。
では誰のためにあるのか。
それはまだイエス・キリストを信じていない人のためです。
クリスチャンであっても罪を犯します。
しかしクリスチャンにはその罪を赦してくださる神が存在します。
私たちが悔い改める時、神様は私たちの罪を必ず赦してくださいます。
ところが9-10節で語られる人々はどうでしょうか。
彼らは罪を律法によって指摘されるだけで、神を信じていない故に赦されません。
多くの人が罪に対して感覚がマヒし、罪を罪と認識していません。
それでも彼らの内側に対して、律法が「罪」を語り、彼らに適切な罪責感を与えます。
そしてその罪責感を生み出している罪を赦せるのは、イエス・キリスト以外に存在しないということを知るのです。
だからこそ律法は「何が罪であり、何を主は喜ばれないのか」ということを多く語るのです。
もしこれを語られていないのであれば、私たちは何が罪であるかを知らないままになってしまいます。
そしてもう1つ大切なことは次のポイントです。
② 律法によって正しくはならない
それは「律法によって正しくはならない」ということです。
先ほども話したように、律法は罪を指摘するのが大きな役割となっています。
それなのにも関わらず、ある人々は「律法を守ることで神に近づく」と主張します。
この意見は明らかな間違いです。
もしそうであれば一体何のためにイエス・キリストは犠牲になったのでしょうか。
聖書にはハッキリと「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」と語られています(ヘブル10:19)。
イエス・キリストが流された犠牲の血によって、私たちは初めて神様に近づき、関係を持つことができるのです。
律法の不適切な用い方はこうです。
「私は律法を守っているから神に愛されている」
「私は律法を守っているから他の人よりも正しい」
「私は律法を守っているから他の人よりも偉く教える権利がある」
テモテが牧会するエペソの教会ではこのような流れがあったのでしょう。
パウロはそれらのことを「不適切である」とこの手紙で指摘しました。
皆さん、言葉が強いかもしれませんが私はこう考えます。
「私は〜〜〜だから神様から愛されていない」と言うのなら、それはあまりにも失礼な言葉です。
愛していない者のためにイエス・キリストは犠牲になったのでしょうか。
愛していない者のために苦しみ、人から憎まれ、血を流し、死なれたのでしょうか。
どこの世界にそのような存在がいるのでしょうか。
もし神が私たちを愛していないのにイエス・キリストを犠牲にしたのなら、そのような神はあまりにも無機質で、いのちの通っていない存在です。
あなたが生まれる前から、神はあなたを愛していたのです。
あなたが「神」という存在を知る前から、神様はあなたを知っていた。
順番を逆にしないでください。
あなたが神を知ってから、神があなたを愛したのではありません。
それは間違っています。悪魔が語る言葉です。
たとえ私が神様を愛さなかったとしても、神様は変わらずに私を愛してくれます。
変わらない永遠の愛とはそういうものです。
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