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  • 鈴木孝紀

「従う自由人」(2020/8/29活動にて)

 みなさんこんにちは。

 猛暑が続いた今年の夏もようやく終わりを迎えてきたと、感じられるようになってきましたね。引き続きみなさんの体調が守られるようお祈りしています。

 さて本日は1ペテロ2章13-17節の御言葉を見ていきます。

聖書は私たちの立場(position)について多く語っていることは、このペテロの手紙を見ていく中で何度か触れました。

 今日の箇所で語られているのは「自由人」という立場です。

 ペテロがこの「自由人」と語っている文脈をまず見て行きましょう。ペテロは、教会の人々に対して「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」(13節)と語りました。この時代ではイスラエルを支配していたローマ帝国の皇帝や派遣されていた総督、またヘロデ王家などが念頭におかれていたことでしょう。この命令は当時のユダヤ文化を考えると、非常に過激な主張であることが分かります。


 イエス様が人としてこの地上に来られた時、群衆は「イエスこそ救世主だ、メシアだ」と語っていましたが、誤った理解の「救世主、メシア」を求めていました。ローマ帝国に長年支配される中で「救世主とは軍事的なカリスマ」を意味するようになってしまったのです。

 救世主がこの地上に来られた時、それはダビデ王のように勇ましい王としてイスラエルを率いてくれる。あの憎きローマ帝国を打ち倒し、ダビデ王朝をも凌ぐ王権が確立される。12弟子には元「熱心党」と呼ばれるユダヤ主義過激派も存在したことから、ローマ帝国への不満は日に日に増していたことでしょう。

 そのような「救世主」像が蔓延している時代に、あの救世主イエス・キリストが生まれたのです。イエス様の昇天後もこの傾向は変わらなかったでしょう。ユダヤ人にとってローマ帝国などは従いたくない存在ですから、ペテロの「従いなさい」という命令は過激な主張に取れます。

 ペテロはなぜ「従いなさい」と語ったのか。それは15節「善を行って、愚かな人々の無口な口を封じるということは、神のみこころだから」という理由でした。善いことを行い、悪を行うものを罰するというのは、様々な国の法律や道徳で勧められています。たとえ神を知らずとも善を行うことを推奨し、悪を嫌うのであればそれは神の御心(願い、思い)に叶っているというわけです。

 ローマ13章1節にもこうあります。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」また13章3節「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

 ペテロと同様にパウロも「クリスチャンは王や総督といった上に立つ権威者に従いなさい」と考えていたことが分かります。


 さて、このような「従いなさい」という文脈の中で、私たちの立場である「自由人」という言葉は語られました。ペテロは「自由」について簡潔に語っています。16節「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。

 私たちは「自由人」ですから、どんなことでも出来ます。私たちを縛るものはありませんし、私たちを制限するものは何一つありません。しかし「自由だから何をしても良い。他人を省みることもせず、自分勝手に、気の向くままに生きていけば良い。」という考え方は、本当の「自由」ではありません。それは聖書のいう「放縦」であって、「自由を、悪の口実に用いている」状態です。

 神様は私たちの行動を無理やり制限しようとする方ではありません。いつでも私たちの「選択する自由」を与えてくれます。勘違いしてはいけないのは、全てのことを選択する自由が与えられていますが、全ての選択が神の御心に沿う訳ではないということです。1コリント6章12節「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。

 私たちは自由人です。私たちはこの与えられた自由を、善を行うことに用います。神様が嫌う悪ではなく、神様が喜ぶ善を行うものでありましょう。善いこととはこうです。17節「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」義務感や圧力によってではなく、神の喜びと平安によって従って行くものでありましょう。

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