すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
ヨハネ8:3〜11
皆さん、こんにちは。峰町キリスト教会の大角詩音と言います。今日は鈴木先生の代打としてメッセージを取り次ぎます。有名なヨハネ8章の姦淫の女の記事から見ていきます。特に、律法学者達とイエス様に注目して見ていきます。
ある所に、ボランティアグループをテーマとした博物館があったそうです。それは、何世紀も前に設立された組織です。当時、海上を行き来することは非常に危険でした。多くの人が、嵐に巻き込まれて、沖合で命を失ったのです。そこで、1つのボランティアグループが動き始めました。それが「人道協会」というグループです。
海岸沿いに小屋を建てて、海を四六時中監視しました。船が沈没し、救助命令が出るたびに、危険を冒して命を救おうとしたのです。彼らは認められるためではなく、人命を大切にしたいという思いに駆られて行動したのでした。彼らのモットーはこうでした。
「あなたは出ていかなければならないが、戻って来る必要はない。」
見知らぬ人を救うために、危険を晒す人の記事を見るたびに、私たちは感動を覚えるのではないでしょうか?
それは、私たちが「人命救助活動」に携わるように造られたからです。普段は、私たちが自分のことにあまりにも一生懸命であるので、そのことを忘れがちですが、このような話を見る時に、私たちの本能が、その必要性を訴えでるのです。ヨハネ8章には、そのことが鮮明に表されているドラマがあります。この物語には、沈没しかかっている一人の女性と、本来は自分たちが救命活動を行うべき男達と、救命活動に励む男が登場します。
不倫を犯した女性がイエス様の前に連れてこられました。彼らは、イエス様を攻撃する材料を探すために、彼女を用いたのです。そして、こう言います。「この女は、現行犯で捕まりました。さあ、あなたはどうするのか!?」イエス様は何も答えませんでした。さて、ここで1つ考えてみてもらいたいと思います。「あなたは、これまでに手に石を握ったことがありますか?」
クリスチャン達は、罪を2つの種類に分けて考えてきました。「肉体の罪(目に見える罪)」と「精神の罪(目に見えない罪)」です。どちらが悪いでしょうか?どちらも罪ですが、イエス様は精神の罪を指摘することが多くあります。それは、目に見えない罪を犯している人が盲目であるからです。時に、全く無自覚なままでいることもあります。目に見える罪を持っている人は、自分の罪を多少なりとも覚えていますが、以下のような罪にどれだけ敏感であることができるでしょうか?
・非難がましい考え
・人を見下したような態度
・強い恨み
・愛のない態度
周りを見回した時に、当たり前に行われている態度かもしれません。ですから、自覚する人は少ないのでしょう。しかし、このようなものに囚われた人は、もはや人命救助に携わることができません。
クリスチャンは一般的に良い人に見えるものです。しかし、教会の中でさえ、石を投げる人が絶えることはありません。それは、「噂」と呼ばれる石です。そこには魅力が確かにあります。そんな石を持った人たちに、イエス様は言いました。
「さあ、石を投げるといい。しかし、あなた自身に罪がないかを確認しなさい。そして、罪がある者は石を投げる立場にないことを思い出しなさい。」
イエス様のコミュニティは、石を投げる余地がない人の集まりです。
普通は人を2種類に分けて考えます。「善人と悪人」。けれども、イエス様の前にいるのは、別の2種類の人です。「罪を認める罪人」と「罪を認めない罪人」です。多くの場合、私たちがイエス様の前に罪人であることを忘れてしまうことが、私たちの手元に石を持たせる原因となります。あなたは手放すべき石を持っているでしょうか? 非難しないで生きるなんて不可能に思える事かもしれません。しかし、石を置く生き方は可能です。それは非難することをやめる生き方です。
私が神学校にいた頃の話です。学生同士とも、スタッフともぶつかり合いがありました。
そんな時に、学生が主導の祈り会に参加し、賛美して祈っている中でイエス様の十字架の前に出された時がありました。日本の救いを祈りながらも、こんなことで日本にリバイバルが来るのかと思いながら祈っていました。そして、今のままではこの学校はダメだ!と強く思い、変えてやると決意しました。そこで、特に上級生との関係が悪かったので、他の人たちと話して「来年度こそ、変えていこう」という話をしました。そこには、「彼らはダメだから」という言葉がセットでした。
そして、4人くらいと話を終え「主のために働いてやったぞ」いう満足感の中で、祈り会に参加しました。すると、イエス様の声が、聞こえた気がするのです。それは「あなたは何をやっているのか」という声でした。イエス様あなたのために頑張ってるんですよ!と答えました。しかし「あなたがしているのは、ただの批判ではないか。そこに愛はあるのか」と問われました。自分は正しいと信じてはいたけど、そんなことはなかった。そして、イエス様に「あなたは、話をした人と、批判をしている人に謝りなさい」と語られたのです。何度も語られるので、祈り会を出て話にいきました。そして、私が批判していた方も祈ってくださいました。愛がなければ、正しいことをしていても意味がない。イエス様は喜びません。
「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)
この言葉を裏返せば、「キリスト・イエスにある者は罪に定めることもありません」ということです。ドロシー・バスという人は素晴らしい安息日の約束を作り上げました。それは、「安息日には家の中で非難しない」という約束です。その結果、彼らの子供達の友人が、彼らの家に来て過ごすようになったそうです。
人を受け入れることと、その人の行動の全てを認めることは同じではありません。受容することと、我慢することも同じではありません。それは、相手をそのままで受け入れる心の行為です。イエス様はそれが出来たので、多く人が彼の周りのいたのでしょう。受け入れる、非難しないとは「あなたが生きているのは素晴らしいことです。私は、そう思っています」と断言することです。そして、それを伝える最も良い方法は、その人が秘密を明かす時に、忍耐と同情を持って聞くことです。全ての人に、このように生きることができれば、どれほど素晴らしいことでしょう。でも、それは難しいですね。そのことを学ぶために、家族があります。そのために、教会があります。家庭や教会は、愛を学ぶ学校であるのです。
私たちは、石を置きましょう。イエス様に受け入れられているから、罪を認め、赦され、愛されている罪人であるから、他の人を非難することをやめるのです。罪に定められた者は、罪に定めない者でもあります。人道協会のモットーは、私たちのモットーでもありたいです。「あなたは出ていかなければならないが、戻って来る必要はない。」
非難という生き方から出て行き、もう帰っていかない。他者を受け入れる生き方にチャレンジして、時に傷ついてしまったとしても。非難する生き方に戻って来る必要はない。イエス様のチャレンジに答えていきましょう。いきなりはできません。でも、小さなことから、救助活動に参加しようではありませんか。私たちは、愛され、赦されて、受け入れられている罪人であるから、石を置くこともできるのです。
活動記録
先月より続けてzoomでの開催をしています。
この形での活動にも慣れてきたように感じます。続けて皆さんと祈り合い、励まし合っていきたいと思います。
事務局:山本
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