みなさん、こんにちは。今月から、1ペテロの手紙を順番に見て行きたいと思います。今日は、手紙の背景と1章1-2節を中心に御言葉を味わっていきましょう。
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イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
1ペテロ1:1-2
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1.手紙の背景 1ペテロの手紙は、12弟子のリーダー的役割が与えられていたペテロにより書かれたものです。書かれた年代はネロの迫害が始まる以前、63年頃と考えられています。この手紙は、主に異邦人クリスチャンに対して書かれました(2:10、4:3-4)。彼ら異邦人クリスチャンは、ユダヤ教が土台にある社会ではなく、異教の地に居住を持ちます。周囲の人々もユダヤ人ではなく、同じ異邦人です。そんな環境下で、彼らは「火の試練(4:12)」に遭っていました。具体的には、「悪人呼ばわり(1:12)」されたり、「悪口(4:4)」を言われたり、「キリストの名のために非難を受ける(4:14)」ということです。 これらは、後に起きる皇帝ネロの迫害と比べ、地域的に限定されたものでした。また迫害の内容も、殉教者が出るほどのことでもないことが予想されます。しかしこれは、異教社会でクリスチャンが神に忠実に歩もうとするときに出会ってしまう「敵意」と呼べるものでした。彼らは言われもない悪口や非難を受けながら、自らが生まれた社会で生活しなければなりません。
現代日本に生きる私たちは、この手紙を読んだ人々の境遇に近しいものを感じるかも知れません。私の経験上、信仰を理由に悪口を言われたり、避難を受けたりするといったことはありませんでした。しかしながら、クリスチャン人口が1%と言われる日本において、クリスチャンであることは時に奇異なものとして見られます。また職場や家庭、学校といった社会において、信仰と相容れないような慣習や方法が行われるというのも珍しくはないでしょう。
このような手紙の背景があるため、使徒ペテロは励ましの手紙を書く必要性を感じました。ペテロは手紙全体を通して、「試練」の存在と、その先にある神からの報い(1:7 称賛、光栄、栄誉)を語っています。 時折、「クリスチャンは試練に遭わない」とか、「クリスチャンは苦しむことがない」という誤った考えがクリスチャンの中に広まることがあります。しかし、聖書全体に目を通すと、クリスチャンは試練と苦しみに遭うことは珍しいことではなく、むしろ前提とされていることが分かります。使徒ペテロは、6節「いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならない」と言いました。エルサレム教会のリーダーであったヤコブも「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。(ヤコブ1:2)」と語っています。
2.神に選ばれた人々へ さて、ペテロはそのようなクリスチャンに対して、「選ばれた人々」と呼びかけます。1節後半2節「選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」。選ばれた人々についての表現は、「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように(選ばれた人々)」と、「(イエス・キリストの)血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々」の2回記されました。 「父なる神の予知」という言葉は、新共同訳では「父なる神があらかじめ立てられた御計画」と訳されています。つまり、私たちがイエス・キリストに従うようになったのは神様があらかじめ用意された計画であり、人の力ではなく聖霊の力によって成り立っているものなのです。
そして同時に、私たちはイエス・キリストの血によって聖なる者とされています。ヘブル9:14では「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とする」と語られました。
私たちクリスチャンは、神によって選ばれ、聖霊によって力づけられ、イエスの血によって聖なる者として生きていく道を与えられた者たちです。神に従う道には、時に「試練」があります。しかし、神は変わらず私たちに恵みと平安を与えてくださいます。それは尽きることなく、むしろ増し加えられていきます。
執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀
1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ
宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒
現在、峰町キリスト教会牧師
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