<ピリピ 1:12〜26> これさえあれば良い
さて、人生において「これさえあれば良い」というものは何でしょうか?ある人は、お金であると言うでしょう。またある人は、家族、仕事、友人と答える人もあるでしょう。 多くの人が多くの答えを持つでしょう。私たちの人生に非常に重要な影響を与えるものを 『生きがい』と言います。これが、人の幸福度を分ける大きな要因であると思います。たとえ貧しくとも生きがいによって幸せである人は多くいます。皆さんでしたら、『生きがい』は何でしょう?今日は聖書の中から、これさえあれば良いというものを考えてみたいと思います。 パウロの『生きがい』 さて、このピリピの手紙を書いたのはパウロという人物です。今日の箇所を見ると、パウロにとっての『生きがい』、これさえあれば良い、と言えるものが2つあると分かります。1つは、「キリストが伝わっていること」であり、もう1つは「キリストが共にいること」です。
1.キリストが宣べ伝わっている 今日の箇所の12節以降には「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」とあります。前回も話しましたが、パウロは執筆当時投獄されていました。それはイエスを宣教したことによって捕らえられたのです。パウロ個人は良いことをしたのに、状況は悪い方向に進んでいるように思われました。しかし、パウロが投獄されたことによってイエス様の福音に出会った人たちがいたのです。彼を捕らえているローマの兵卒の中にもパウロを通して福音が伝わっていきました。「災い転じて福となす」です。彼は手紙の中でこう言っています。「私の投獄はかえって福音の前進に役立ったのだ、わたしは喜んでいるからピリピの教会の一人一人も、私の投獄を喜んで欲しい」と語っています。
そんなパウロにも悩みはありました。15節には「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせています」とあります。これはクリスチャンであっても、イエス様を伝えている人であったとしても多くの悪い思いを持っている人がいたということです。具体的には、パウロが活躍していることを妬んでいたグループがあったのです。獄中にあったパウロは、そのことを悲しみました。この妬みのようなものは、決して良いものではないでしょう。パウロに勝るために、私たちは伝道するぞという意気込みです。しかし、パウロは悪い動機をそこまで気にしていないようです。もっとも大切なものが伝わっていれば後は良いと言わんばかりです。 こだわりを持たない男? そのことが顕著に表れているのが18節です。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」パウロは、不必要なこだわりを持たない人でした。自分に対する敵対心、または嫉妬による敵対心があったのかもしれませんが、そのようなことよりもイエス様が伝わっていることの方が遥かに重要であるとパウロは考えました。「とにかく」それさえあれば良いということですね。 『生きがい』を生きる
以前、私はビル・ジョンソン先生という方がお話ししてくださる集会に参加しました。母校の関西聖書学院で開催されていた集会に来てくださった講師でした。彼は世界最大の教会学校を主催いる方です。彼は非常に情熱的に語ってくださりました。 彼は、世界各地の貧困や暴力にあえぐ子供達を救うために身を粉にして働いている人です。銃弾で打たれたこともなんどもあり、飛行機の墜落も3度経験したと言っていました。また、彼の言葉は時に過激なので、批判されることも少なくないそうです。ですが、「私が批判されることはなんの問題でもない。私の言葉によって、世界のクリスチャンが少しでも世界の現状を知り、それを変えるために働くことができるのであれば」と言っていました。彼は何十もの子供達がスラムの中で殺されている現実を見たそうです。そして、彼らが救われさえすればあとは何でも良いと言わんばかりの姿でした。もう間もなく70歳にもなろうとされている方ですが、依然としてアフリカや南アメリカ、中東などの危険な地域に足を踏み入れています。彼は確かに神様から与えられた情熱に生きた人です。彼は、子供達がただ貧困から回復されるだけでなく、イエス様に出会うことを第一に求めています。だから教会学校という形で支援しているのです。それは、ただ支援では彼らを永遠に救うことはできないが、イエス様にある永遠の命が彼らを救えると信じているからです。ジョンソン師は、確かに生きがいを持っている魅力的な方でした。 私たちの固執すべきもの 私たちにとって、それほどまで大切なものとは何でしょう。いろいろなことがあるように感じますが、実は固執すべきものはそれほど多くはないのではないでしょうか? パウロにとって重要なことは、「イエス様の福音が、まだ福音を知らない人に伝わっていくこと」でした。ビル・ウィルソン先生にとっても同様であると思いますし、私も同様に考えています。人に神様の愛を届けること、そこに執着すべきであり、他のことにはおおらかであるのは良いことであると考えます。 クリスチャンは福音が伝わることに固執すべきであり、そのための方法はあまり気にしない、それがパウロから教えられる生き方の一つです。
2.キリストが共にいること パウロにとって、譲れないもののもう一つのことは「キリストと共にいること」です。今日の箇所では「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と言っています。過激な発言ですよね。生きることはキリスト、簡単に言い換えれば、生きている意味はイエス様と共にあることだということです。死ぬことも利益。この世を去ったとしても天国で神様と共あるのであるから良いと言っています。 ですから続けて、23,24節では「この2つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが、他方では、肉にとどまる方があなたがたのためにもっと必要です」と言うのです。彼は2つのものの間に板挟みになっていると言いました。その板挟みとは、天国に行きたい思いと、地上に残りたい思いとの板挟みでした。天国の素晴らしさを知っているから早く天国に行きたいのです。そこでは神様と共にずっといれるからです。しかし、まだ生きているのであれば、他の人を助けることができる、イエス様を伝えられる。
こう考えてみると、パウロは早く地上を離れたいと願った人だと言えます。でも、彼には生きる理由もありました。この2つに挟まれて生きていたのです。もちろん、生きることは素晴らしいことですが、天国では神様と出会うことができることの素晴らしさがあります。他の箇所では、「わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(1コリント13章12節)と言っています。この地上では、神様の素晴らしさを知り尽くすことはできないが、天国に行ったならばはっきりと分かる、その日を心待ちにしようということですね。
キリストが共にいることに満足する 私の尊敬している方を一人紹介します。この人は、40歳を前に癌にて天に召された人です。名前をTさんといいます。2人の子供の母親で、クリスチャンの家族でした。彼女に癌が発見されたときはもう末期の状態で治療は難しいという状態でした。しかし、子供達はまだ幼く2人とも小学生です。病気について聞いたときに、私たちは彼女が癒されることを信じて祈りましたが、状態は進んでいきました。 病状も進んでいたときに、病院の許可を得て礼拝に来られたときがありました。その時の姿は、抗ガン剤治療によって髪の毛もなくなりニット帽を頭にかぶって礼拝をされていました。
私は、礼拝の司会をしていたのですが、彼女は誰よりも真剣に、また喜んで礼拝を捧げておられました。私はその姿に言いようもない感動を覚えました。人は、苦しんでいたとしても、真剣に神様に礼拝はできるものであるのだと思わされました。彼女は、辛い状況の中でも、イエス様が共にいることを喜んでいたのです。そのまま天に召されることになりましたが、彼女は生前にご親族の方々に、どうか最後の願いであるからイエス様を信じてほしい、天国で再開しようと語られて天に帰って行きました。彼女のお葬式の少し後には彼らの洗礼式が持たれたのです。 私たちは人生の何よりも欠かせないものを持っています。これさえ、あれば良いというものを持っているのです。どんな時にも変わらずに愛してくださる方。たとえ死さえも、天国という希望に変えてくださる方を知っていること。これが欠かせないものです。神様が共にいてくれることは、本当に素晴らしいことです。 また、同時に余計なものを捨て得る幸いにも預かっています。パウロは、ピリピ書の後半にて「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(ピリピ3章8節)と言っています。イエス様が共にいること、イエス様が伝わっていることは本当に大切なものです。他の枝葉的なことに騙されずに、本当に大切なものを握り続けましょう。
執筆:峰町キリスト教会 牧師 大角詩音
1990年栃木県宇都宮市で牧師の末の子どもとして生まれる。 東京基督教大学卒 関西聖書学院卒 現在は、峰町キリスト教会で牧師をする傍ら、
宇都宮インターナショナルクリスチャンスクール(UICS)で
常勤スタッフを務めている。
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