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  • 矢部晶宏

赦し


​​嫁ぎ先での話です。お姑さんは数年前に亡くなったのですが、とても温かくて嫁にも優しい人でした。それに比べて舅は頑固で意地悪、一所懸命家事をする嫁にいちいち文句をつけるのです。味噌汁については特に厳しい。「あ"〜まずい、婆さんの味噌汁とは全く味が違う。覚えが悪い嫁だ!」毎日怒鳴りつけられ遂に頭にきた嫁は、舅に出す味噌汁にこっそりと殺虫剤を振りかけました。そんなこと夢にも思わない舅は、味噌汁をすすり、しばらく黙りこんだ後言いました。「これじゃよ!この味じゃよ!婆さんの味噌汁は!!」姑も舅を相当憎んでいたんですね。

私たちも対人関係において絶対に赦せない、仕返ししたいと思ったことがあるのではないでしょうか?人間関係が悪化するのも国同士の争いが解決に向かわないのもしばしば赦せない心が原因です。赦せない心はその人を不幸にするだけでなく、健康を害することもあります。今日のイエス様のたとえ話から「赦し」についてご一緒に考えてみたいと思います。

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このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。

それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。

しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。

彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。

しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。

彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。

そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。

私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』

こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

マタイ18:23-35

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1. どのように赦すのか? 

たとえ話を簡単に要約します。王様から1万タラントを借りていたしもべが、返済期間の延長を必死に懇願します。すると憐れみ深い王は期間延長どころか、しもべを赦し借金すべてを免除されました。王の厚意に与ったしもべが宮殿から出てくると、以前100デナリ貸していた同じしもべ仲間に出くわします。その仲間も彼に返済期間延長を切願します。しかし悪いしもべは、仲間を赦さず、投獄してしまいます。

当時のしもべの日給は約1デナリ(約5000円)ですので、100デナリは約50万円です。まあまあ多い借金です。では1万タラントはどれくらいでしょう?1タラントは6000デナリ(約3000万円)ですので、1万倍して約3千億円です。3千億円の借金を赦してもらったしもべは、自分に50万円借金がある仲間を赦せなかったのです。王はそのことを知り、3千億円全額返金するまで悪いしもべを獄吏に引き渡します。

でもちょっと考えたいんです。もし悪いしもべが3千億円赦してもらったすぐ後に、王の目の前で、宮殿の中で借金100デナリのしもべ仲間に会っていたらどうだったでしょう?喜んで借金全額を赦したのではないでしょうか?私たちにも同じことが言えます。人を赦せないと思う時、私たちはイエス様の前から遠く離れているのです。宮殿を出てしまっているのです。王なるイエス様の十字架の贖いを忘れてしまっているのです。痛みや傷が大きければ大きいほど、加害者を赦せない気持ちは強くなります。そのような時、赦す理由なんてないかもしれません。赦すことなんてできないかもしれない。しかしイエス様の十字架のもとなら、私たちにはいつも赦す理由があります。赦すことができます。どのように赦すのか?私たちはイエス様の前で赦すのです。

2. なぜ赦すのか?

イエス様は35節で言われます。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」「このように」とは、前節の「獄吏に引き渡す」つまり「神様もあなたを赦さない」ということです。人を赦さなかったら、神様に赦されないと言うのです。でもそれっておかしくないですか?「イエス様の十字架の死と復活は自分のためだ」と信じるなら救われ、私たちのすべての罪が赦される、人間の行いは一切要らないというのが福音です。矛盾してないですか?してないのです。「あなたが人を赦さないと神様もあなたを赦さない」というのは、「あなたが人を赦さないなら、実際自分がどのように神様に赦されているのか分ってないよ。神様の愛と赦しを本当の意味で体験できないよ」という意味です。主に悔い改め、赦しを求める時、私たちは100%完全に赦されます。何度同じ罪を犯しても赦されます。私たちが赦されるのは、ただただイエス様の愛と十字架の贖いの完璧さゆえだからです。そして私たちが「神様に赦していただいた」と本当に分かるのは、私たちも誰かを赦した時なのです。そこには主の解放と自由があります。

マリーさんとオシェイさん

1993年2月12日、マリー・ジョンソンの一人息子ララミユンはギャングの口論中に射殺されました。事件から2年後、16歳の犯人、オシェイ・イスリアルが逮捕され、懲役25年の判決を受けます。憎しみが津波のように押し寄せてきます。クリスチャンのマリーさんは裁判所で犯人を「赦す」と言ったものの、心は憎しみに囚われ、元の生活や精神状態には戻れないと思っていました。約10年が過ぎた2004年、活発な教会生活をしていたマリーさんに牧師先生から「教会のクラスでみんなに赦しについて教えてくれないかい?」と依頼があります。テキストを読み準備をしていると、彼女の心に声が響きました。「マリー、悔い改めなさい。犯人について発した言葉、抱いている感情や思いを悔い改めなさい。自分自身のために祈るように、​​オシェイのために祈りなさい。」マリーさんは祈り始めました。犯人の名前が頭に浮かぶ度にマリーさんは「彼を赦すことを選びます」と宣言し続け、イエスキリストの御前で赦す選択をする毎にマリーさんの心は解放されていきます。2005年、マリーさんは犯人と面会する決意をします。「私の内におられるお方によって、私はあなたを本当に赦していることを知ってほしいの。ハグしてもいい?」驚く犯人とハグした瞬間、12年間まとわり付いていた憎しみ、苦痛、敵意が一瞬のうちに離れ去ったと言います。話せば話すほど絆が強まり、2人は定期的に会い、遂に赦しと和解の大切さを伝える刑務所ミニストリーを始めるほどになります。

2010年、オシェイが出所した時には、マリーさんはたくさんの人を招待し、彼のためにホームカミング・パーティを開いてくれました。2人は今、隣同士の家に住んでおり、世界中で「赦しの力」を証ししています。​​

マリーさんは言います。「赦させない心は危険です。あなたにも伝えたいのです。聖霊様により頼み解放していただく時、本当に本当に、なんという自由なのでしょう!ものすごい自由があるのです!」

私たちも赦せない人がいるかもしれません。でもイエス様の力で赦すことができます。赦す選択をし、神様の愛と赦しをもっと体験していきましょう。

執筆:峰町キリスト教会 宣教師 矢部晶宏

1984年、鳥取県鳥取市に生まれる。

ニュージーランド・カンタベリー大学 社会・政治学部 卒

JTJ宣教神学校牧師志願科卒。

海外生活中にネット配信の礼拝メッセージで励ましを受けたことをきっかけに、2011年大好きな峰町キリスト教会に導かれる。

現在峰町キリスト教会で仕える傍、ドイツ語圏宣教師として派遣される準備中。

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