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12:7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
Ⅱコリント12:7〜10
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「先生、うちの兄が結婚することになりました。兄は悪行を重ね、何度も警察に捕まりました。しかし相手の家族には兄の過去を知られたくないんです。お金はたくさん払いますから、結婚式では、兄を『聖者』として紹介してほしいんです。」
牧師は困りました。結婚式当日、牧師が新郎新婦を紹介します。
「新婦〇〇さんは、インテリで、若くして大企業の初の女性部長として活躍されています。一方、新郎の経歴は最悪です。小学校中退後、あらゆる悪に手を染め、刑務所が実家かと思うぐらい入所を繰り返してきました。こんな人間が、これほど素晴らしい女性と結婚していいのかと心配になります。しかし彼の弟と比べれば、新郎は聖者のような人です。」
さて、私たちも他人と自分を比べることはないでしょうか?人と比べて劣等感や優越感に陥ったり、理想の自分と等身大の自分を比べて落ち込んだりします。そして一生懸命自分の弱さや失敗を隠そうとします。でも弱さって本当に悪いものでしょうか?パウロは、「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言います。弱さはマイナス要因ではなくプラス要因。この聖書の逆説から神様の恵みに与りたいと思います。
なぜパウロがこの手紙を書いたかというと、当時コリントの教会に偽物の使徒たちが現れたからです。使徒とは「遣わされた者」です。偽使徒たちは、パウロの使徒職を疑い、人々を惑わしました。パウロの知人たちは、彼を擁護するどころか消極的な態度を取ってしまいます。「私がバカにされるのは構わない。しかし私の使徒職を疑うならば、私が伝えるイエスキリストの福音も疑われてしまう!」パウロは、自身の使徒職の信ぴょう性を証明するためにこの手紙を送ったのです。
1.弱さは高ぶりから守ってくれる
パウロには、なくなってほしいものがありました。7節の「とげ」です。しかしそのとげが神の栄光のために用いられることを知り、パウロは感謝を捧げます。パウロは、人間には許されていない第3の天を見てきました。その啓示があまりにも素晴らしいので、高ぶらないようにとげが与えられました。「とげが与えられた」とは、原語で「大きなくいが刺さっている」という意味で、身体的な苦しみを表します。またこのとげは、「サタンの使い」とあるように、精神的苦痛をも意味します。そして主がとげを取り去ってくれるよう3度祈りました。「3度」とは3回のことではなく、これ以上ない程の回数という意味です。何年祈っても祈りが聞かれない霊的な苦しみ。パウロは、このとげのせいで、身体的・精神的・霊的すべての面で苦しみました。
人生で最も危ない時は、成功した後や何か達成した時です。箴言16章に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」とありますが、高ぶっている時が一番危険です。多くの人が高ぶりによって失敗し、人生を台無しにしてきました。弱さやとげは、私たちを高ぶりから守るツールとして用いられるのです。
私たちも何かしらの「とげ」を持っています。そのとげは、精神的な弱さや身体的な痛み、引け目に感じていることかもしれません。私たちは、それらが無くなるように祈り求めるべきです。しかし仮に無くならなくとも、主に委ねるなら、そのとげには重要な役目と御計画があり、主の栄光のために用いられると知るなら、大きな励ましを得ます。
2.弱さの中で神様の力が現れる
9〜10節、パウロは弱さの中で、神の国の真理を体験します。人は「弱さ」が嫌いです。自分についてネガティブに思っていることやコンプレックスに感じていることは、しばしば弱さに関係しています。「弱いことは悪く、強いことが良い」これがこの世の価値観です。しかし神の国の真理は、この世の価値観に逆行します。「弱い時にこそ、強い」これが御国の真理です。
溺れてパニックになっている人を助けたいなら、その人がピンピンしている間は、かえって危険です。変に抵抗されて、怪我をしかねません。「自力では無理です。助けてください」と身を委ねた時がチャンスです。神様も同じです。私たちが自分の弱さを認め、主に委ねる時、神の力が現れるのです。神様は私たちの弱さに惹きつけられるお方です。
3.苦しみの中にいる人を慰めることができる
2コリント1章に「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」とあります。
人は誰でも苦しみや悲しみや弱さを感じます。人生のどん底と思うようなところを通ることもあります。しかし弱さや苦しみや悲しみには、少なくとも2つの重要な役割があります。一つは、あなた自身が神様の慰めを受けることです。もう一つは、同じ苦しみにある人を慰めることです。あなたが経験した弱さや苦しみでないと、慰められない人が必ずいます。あなたじゃなければダメなのです。そして不思議なことに、自分の弱さや苦しみが誰かの慰めとなった時、自分自身も励まされ、癒され、喜びを感じるのです。この美しい神の御業は、弱さや苦しみを経験した者だけが得られる祝福なのです。
弱さを強さに変えてくださるイエス様との愛の交わりを通してのみ得られる祝福があります。本当に強い人とは、神の御前で自分の弱さを知っている人です。ですから、私たちは大いに喜んで自分の弱さを誇りたいと思います。
執筆:峰町キリスト教会 宣教師 矢部晶宏
1984年、鳥取県鳥取市に生まれる。
ニュージーランド・カンタベリー大学 社会・政治学部 卒
JTJ宣教神学校牧師志願科卒。
海外生活中にネット配信の礼拝メッセージで励ましを受けたことをきっかけに、2011年大好きな峰町キリスト教会に導かれる。
現在峰町キリスト教会で仕える傍、ドイツ語圏宣教師として派遣される準備中。