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  • 鈴木孝紀

「永遠の望み」(2019.12/28栃木EMFにて)

 みなさん、こんにちは。インフルエンザが流行り、体調の崩しやすい季節ですがいかがお過ごしでしょうか。今回、今年最後の栃木EMFになりますが、前回から引き続き1ペテロからみことばを味わいたいと思います。 **

 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。(1ペテロ1:3-12)

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1.永遠の望み

 ペテロは、キリスト者というだけで悪意に晒されてしまう兄弟姉妹に対して、励ます意図を持ってこの手紙を書きました。ペテロが兄弟姉妹を励ます際に使った言葉は「生ける望み」(3節)です。 この「生ける望み」というのは、キリストによって新しく生まれ、永遠のいのちを持ち、そして終わりの日によみがえらされる、という神からの約束です。そしてこの約束をペテロは、次のように表現しました。4節「朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産」5節「終わりのときに現わされるように用意されている救い」。つまり神が与えた約束は、時間の経過で消えるものではなく、また今も「生きている」(約束が有効とされている。) 、ということです。もし死んだ約束(望み)であれば、それを信仰するのはとても虚しいでしょう。しかし主イエスの父なる神は、必ず「終わりの時」に約束したものをクリスチャンである私たちに与えてくれます。2コリント1章19-20節にも「神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。」とあります。



 ペテロはこの約束がクリスチャンには与えられている、という前提に立って人々に語りかけます。6節「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、」。神が与えた約束という望みを抱いた時、それは私たちの中に喜びを生み出します。その喜びはこの世のモノが与える喜びのように有限ではありません。文字通り永遠に続いていくものなのです。 しかしペテロはもう一つの前提も見落としません。クリスチャンはこの世にいる限り、試練に遭います。試練はいたずらに与えられるものではなく、神様の意図、つまり御心に沿って与えられます。試練は私たちに成長を促し、また神様への信仰が深められる現実的な体験とも言えるでしょう。



 そう知っても尚、私たちは試練に遭った時に悲しみや辛さを覚えます。ペテロは確かに「悲しまなければならない」と言いました。苦しみ、涙を流す日があるということを否定していません。しかしクリスチャンはそのような中にあっても8節「栄えに満ちた喜びにおど」ることが出来ます。不思議なことかもしれませんが、悲しみと喜びは同居します。教会のご葬儀に参列するといつもそのような不思議な感情を抱きました。「ああ、この人が亡くなって悲しい。もうこの地上では会えないのか。」「でも、必ず再びこの人と会えるのか。」悲しみの中に、確かな希望を見出すことができます。その理由は単純です。9節「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているから」です。 2.預言とその成就

 私たちに今与えられている永遠の望みは、旧約時代の預言者たちを通して語られたことでもありました。彼ら預言者は、神から与えられた預言を宣べ伝えるだけではなく、その内容を吟味し、調べ上げ、そして希望を持って待ち望んでいました。預言者たちは聖霊によってキリストの福音を預言し、その預言は使徒たちを通して全世界へと語られます。こうして場所を越え、時代を越えて、いまの私たちに「永遠の望み」であるキリストの福音が与えられました。



 旧約の預言者たちはキリストが地上に1度来られるのを目で見ることはできませんでした。またキリストと共に衣食住を共にした使徒でさえも、ひとときの眠りについています。しかしながら、終わりの日には全ての人々が再臨されてキリスト・イエスを見ることになります。預言者も、使徒も、今は眠りについている信者たちも全ての人々が待ち望んだ希望を目の当たりにするのです。 その終わりの日は、「御使いたちもはっきり見たいと願っている」ことです。またローマ8章19節には「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」と記されました。私個人だけが待ち望んでいることではありません。御使いや口では語らぬ被造物さえも、終わりの日が訪れるのを待ち望んでいるのです。

あなたは独りでその希望を待ち望むわけではありません。名もなき信仰者たちが、永遠の望みを抱きながら歩んで生きました。試練が訪れた時、ぜひ思い出してください。「私は独りではない。私と同じ永遠の望みを抱きながら生きた人々、今を生きる人々がいるのだ。」と。あなたが抱く永遠の望みは、必ず神様が与えてくださいます。




執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒 峰町キリスト教会牧師

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