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  • 執筆者の写真鈴木孝紀

「不当な苦しみの中で善を行いなさい」(2020/11/21活動にて)

 みなさんこんにちは。

 今月は1ペテロ2:18-25を見ていきましょう。




しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。(1ペテロ2:18-25)

 今回の箇所でのキーワードは「苦しみ」です。みなさんの中に「わたしは苦しみたいです」という方はいるでしょうか。わたしは苦しまなくて良いなら苦しみたくありません。

ところが聖書は「苦しみ」の存在を否定していません。この箇所でもクリスチャンは苦しみにあうという前提が示されています。しかもその苦しみは失敗に対する罰などではなく、「不当な苦しみ」です。


 因果応報や自業自得、身から出た錆、当然の報いといった、いわゆる「自分のせいでしょ」という言葉はたくさんあります。ところがここで言われているのは、自分に非がないにも関わらず発生した苦しみです。

20節「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。」


 罪を犯した場合、それに対する罰を受けるのは当然です。その罰をいくら耐え忍んだとしても「立派なことだ」とは誰も、神様も言いません。

 しかし逆に、善を行った上での苦しみに耐え忍ぶ。それは神の御前に喜ばれることだ、とペテロは語りました。

 これは一体どういうことでしょうか。2つの点を話します。



 1つは「不当な苦しみを神がまず味わった」ということです。21節以降でキリストの受けた苦しみについて説明されています。

 キリストの十字架は「私たちの罪の身代わり」で、キリストが罪を犯したわけではなく、私たちの罪のために死なれました。罪に対する罰は正当な苦しみです。ところがキリストは無実でありながら罰を受けた。つまり正当ではない「不当な苦しみ」をキリストは味わったのです。


 このキリストの苦しみは、私たちの救いのため。そして私たちに模範を残すためでした。苦しみでもっとも辛いのは、わたしだけがこんな苦しみにあっていると考えてしまうことです。ただの苦しみでもそう考えてしまいがちですから、不当な苦しみにあっては余計そう考えるでしょう。

 しかし模範であるキリストは、私たちを決して独りにはしません。喜んでいるときにも、そして苦難という悲しみの中にあってもです。なぜならキリスト自身がそのような苦しみを経験し、私たちに寄り添ってくださるからです。


「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(ヘブル4:15)


2つ目は「それでも善を行いなさい」ということです。

耐え忍ぶ、という言葉に対して私たちはどういうイメージを持つでしょうか。どこかジッと動かないように苦しみが過ぎるのを耐える。そんな消極的イメージではないでしょうか。

 ところが原語的な意味は「積極的に立ち向かう」というものです。つまり善を行いながら苦しみにあうという状況に対して、「もう良い。善を行っても意味がない。これなら悪を行っても同じじゃないか」と考えるのではなく、「それでもわたしは善を行う」ということを実行し続けること。これこそが神の御前に喜ばれる、という意味なのです。


 そのような意味でペテロは21節「このためにこそ、あなたがたは召されました。」。また24節「私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」と語っています。

 ローマ人への手紙ではさらに具体的にこう書かれています。

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。……悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:17,21)



 私たちが生きてく中で、これからも苦しみはあります。たとえ善を行ったとしても起こる苦しみが必ずあります。しかしその苦しみはキリスト・イエスがすでに経験したものです。私たちを救うため、そして模範となるために苦しみました。キリスト・イエスがその苦しみの中でも善を行い続けたように、私たちも善を行うものでありましょう。

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