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執筆者の写真鈴木孝紀

「夫たちよ。妻たちよ。」 (2020/12/12活動にて)

皆さん、こんにちは。

今日は1ペテロ3章1-7節を見ていきます。

今回の箇所は、妻と夫それぞれに教えが語られました。

結婚している者もいればまだ未婚の方もいるでしょう。

この箇所から共に学んでいきたいと思います。


同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。

(1ペテロ3:1-7)




まずこの箇所で注目したいのは、教えの量のバランスです。

妻には6節語られているのに対して、夫は1節しかありません。

これは妻が信仰を持った場合の方が、当時は困難が多かったからでしょう。

現代と違い各家庭の宗教とは、「夫の宗教」=「家の宗教」という時代でした。

そんな時代に妻だけが信仰を持ったとなると、夫婦関係の悪化や極端に迫害を受けるということも十分あり得ました。

ペテロはそういう背景を考慮し、妻という立場であるクリスチャンへの教えを多く語ったのでしょう。


妻に対して語られているのは「夫に従いなさい」という教えが中心になります。

これはパウロが「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)と教えたのと同じ内容です。

特にここで念頭に置かれているのは「みことばに従わない夫」。

まだ信仰を持っていない夫を持つ妻たちへの助言になります。


ペテロは「(夫は)妻の無言のふるまいによって神のものとされる」と言いました。

言葉と同じぐらい、いや時にそれ以上に「ふるまい」、つまり行いには力があります。

クレヨンしんちゃんという漫画に、妻のみさえが夫ひろしに怒った際、無言で包丁をまな板にパンッ!とやる場面がありました。

すると夫ひろしは冷や汗を流しながら、怒られた原因を取り除こうと頑張ります。

まさに「無言のふるまい」には力があります(笑)。




無言のふるまいは「心の中の変化」から生まれてきます。

「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。」(3-4節)

結婚前の男女が注目しやすいのは、お互いの見た目です。

相手が可愛いのか、格好良いのか。美しいのか、ワイルドなのか。

だからこそ「一目惚れ」が起きるわけです。

ところが結婚後の男女は、共にお互いの性格を重要視するようになります。

どれだけ良く着飾った伴侶が隣にいても、性格への不満は覆い隠せません。

生涯を共にする相手の見た目は衰える方向に変化していきます。

しかし内面はいつでも発展途上。成長する余地があるわけです。

そして内面の美しさが見た目以上の美しさを作り出すのです。




夫に対しては「理解して妻とともに暮らしなさい」、また「恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」という教えを語りました。

妻に対する「従いなさい」という教えに対して、「男尊女卑だ!」「女を道具として見ている!」という批判があります。

ところが聖書は男尊女卑、ましてや女性を道具のように扱うことを勧めていません。

むしろ妻という存在を理解する努力を求めています。

また共にイエス・キリストの恵みに与る者として敬うことも付け加えました。


古代仏教では、女性は救われない存在と扱われています。

本来、寺は女人禁制で仏僧は所帯を持つ事も禁じられています。

江戸時代にはそれを破り所帯を持った仏僧が島流しにあいました。

(ぶっそうな話です。)

女性は軽んじられ、救いの方法を知っていても救いに与れない。

文字通り「救いようがない存在」とされていました。

ところがここでは「恵みをともに受け継ぐ者」とあります。

理解するべき存在であり、同じ恵みに与る神の兄弟姉妹。

これが聖書のいう妻であり、そのように取り扱うことが男性の責任なのです。


この箇所の結論はこうです。

7節「そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。」

信仰を持っていない伴侶とは当然祈り合えませんが、夫婦であってもそれはあり得ます。

同じ信仰を持っていたとしても、夫婦関係が壊れているのであればそこに祈りはありません。

夫婦が共に心を合わせて祈るならば、そこには必ずイエス様が共にいてくださります。

ですからお互いの非によって祈り合えないというのは、致命的な状況なのです。


主に祝福された結婚生活を送ってほしいと願い、ペテロはこれらの教えを語りました。

私たちもこの箇所から学び、それぞれの生活で実践する者でありましょう。




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