みなさん、明けましておめでとうございます。
今年1年も栃木EMFを通して、互いに愛し合うコミュニティを目指していきたいと思います。
今月から1テモテへの手紙を見ていきます。
パウロが「わが子」と呼んだテモテに対して送った手紙となります(2節)。
では共に見ていきましょう。
私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。1テモテへの手紙1:1-2
手紙を送る際、初めに挨拶の文が入ります。
パウロによって書かれた手紙が多く新約聖書には含まれていますが、今回の手紙においても1-2節で挨拶がされています。
手紙やビジネスメールなどで挨拶をする際、定型文を使いがちですが、パウロの挨拶には「神様とテモテ」を強く意識していることがわかります。
1節「私たちの救い主である神」「私たちの望みであるイエス・キリスト」
2節「信仰による、真のわが子テモテへ」「父なる神と私たちの主キリスト・イエス」
パウロはこの手紙を通して、テモテを励ますことを目的としました。
なぜなら若いテモテがエペソの教会を治めるリーダーとなったからです。
励ます時に「お前ならできる」という方向ではなく、「あなたに味方する神様はどのような方か」という方向から語っていることに注目しましょう。
根拠のない自信を与えようとしているのではなく、神様についての根拠を思い出させた上でテモテを奮い立たせようとしているのです。
まず1節で「私たちの救い主」「私たちの望み」という言葉を使っています。
神様が私たちを罪から救い出すために死んでくださったこと。
これが「私たちの救い主」という言葉の意味です。
そしてもう一度イエス・キリストがこの地上に来られ、完全な裁きを行なわれる。
これが「私たちの望み」という言葉の意味です。
どちらも神様がどのようなお方なのかを思い出させる言葉になります。
これらの言葉を耳にタコができるほど聞いた人もいるでしょう。
それはこのことがあまりにも基本的なことだからです。
スポーツ選手にとってのフォーム確認のようなもので、基本的なことを確認しているのです。
逆に言えば、この基本が土台になっていなければ、その上に何かを建てあげようとしても揺れる土台になってしまいます。
みなさんの土台は今どこにありますか。
この土台は基本的すぎて、時に忘れられてしまうものです。
あなたの救いと望みの土台は、神様にしかありません。
2節を見ていきましょう。
「父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。」
他の教会に対しての挨拶では「恵みと平安が」という言葉でしたが、テモテに対しては「あわれみ」という言葉を加えています。
「あわれみ」という言葉は、裁き受けるべき者が受けなくていい状態になっていることを指しています。
当然このあわれみの根拠も、イエス・キリストによる十字架の救いです。
パウロの過去を考えると「私はあわれみを受けている」と誰よりも力強く答えるでしょう。
元はキリスト教の反対者で、多くの信仰者を迫害し、殺害しました。
ただの人殺しではなく、明確に神に敵対していた人殺しだったのがパウロなのです。
そのような者に直接神様が語りかけ、救い出すだけでなく、使徒の一員として用いられた。
パウロに起きた出来事は、まさに「あわれみ」であってパウロ自身が強く認識しています。
1章15-16節でもこう語っています。
「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」
テモテは教会リーダーの1人でしたから、パウロは殊更にこの言葉を加えたかったのでしょう。
主のために働きを行う上で、必要不可欠な「あわれみ」。
これを神様から受けるのだ、とパウロは語っているのです。
恵みと平安、そしてあわれみ。
これらを与えてくださるのは、父なる神と私たちの主キリスト・イエスです。
自分の力で獲得しようとしても、それは人工物と同じです。
私たちが何かを行ったから得られるのではなく、その価値がないにも関わらずに与えられるもの。
それが「恵みとあわれみと平安」です。
この新しい1年間、私たちの上に「父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように」。
そして来月以降、テモテへの手紙から共に励まされていきましょう。
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