みなさんこんにちは。
本日は1テモテへの手紙1章3-7節を共に見ていきましょう。
私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。 1テモテ1:3-7
テモテに任されたエペソの教会ではいくつかの問題がありました。
そのうちの1つが「違った教えを説く偽教師」の存在です。
パウロの手紙から彼らがどのような教えを説いていたのかが想像できます。
4節「果てしない作り話と系図」
この作り話という言葉は、別訳では「昔話」と訳されるものです。
時代を遡ってありもしない事をさもあるかのように話す。
そうすることで聞いている人は「新しい知識を得た」と勘違いし、偽教師は「私が語った教えによって影響を受けた」と誇らしげになるわけです。
系図も同様のことが言えます。
ユダヤ人にとって系図とはとても大切なものです。
新約聖書の最初、マタイの福音書はイエス・キリストの系図で始まります。
アダムからどのようにしてイエス・キリストまでが繋がっているのか、これをハッキリさせるために系図はとても重要なものでした。
日本でも家系図が大切にされている時代がありました。
正しい家系図を知ることができたなら、自分自身のルーツに触れることになりますから、それはとても有益なものでしょう。
ところが偽教師たちは、系図に対して付け加えたり、ありもしない系図をでっち上げたりしたようです。
ユダヤ人たちにとって系図は大切なものだったからこそ、偽教師の教えは魅力的だったのかもしれません。
しかしパウロはこのことに関してバッサリと切り捨てます。
「ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。」(4節)
偽教師たちが語るそのような事柄はただ議論を引き起こすだけだ、と一蹴します。
実は日本でも一時期、このような話が流行ったことがあります。
それは「日ユ同祖論」というものです。
少しこのことについて説明します。
イスラエルの歴史を見た時、北イスラエルと南ユダに分裂した出来事がありました。
そして北はアッシリア帝国によって、南はバビロンによって滅ぼされます。
北イスラエルには12部族中10部族がつきました。
しかしアッシリアによって滅ぼされた時、彼らは「失われた10部族」になったと、日ユ同祖論では説明しています。
この失われた10部族が世界中に散り散りとなり、ある部族が日本に行き着いた、とも説明しています。
そしてその根拠に「日本の神社はユダヤの神殿としている点が多い!」とか、「儀式にも似ているところがある!」とか「お祭りにも類似点がある!」とかそんなことが挙げられています。
ここまで説明しときながらですが、この日ユ同祖論はそれっぽい作り話です。
世界中を見渡すと同じような理論がいっぱいあります。
国名を少し挙げます。インド、ミャンマー、朝鮮、イギリス、アメリカ、中国などなど。
イスラエルは神によって選ばれた民ですから、「私たちの国もユダヤ人が祖先なのだ」と言えば「選ばれた民」としての地位が与えられると思っているのでしょう。
そんな人たちに対して、次の言葉が言えます。
「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。」(ローマ9:6-7)
この言葉を無視して、果てしない作り話と系図に心を寄せてしまうのなら、「むなしい議論に迷い込み、律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。」(7節)になるのです。
パウロがこのような命令を出した意味をこう説明しています。
「この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。」(5節)
偽教師たちの根底には、虚栄心や承認欲求による偽りがありました。
周りの人間からすごいと思われたい。認めてほしい。
そのためにむなしい議論を生み出し、それっぽい事を述べて評価を得る。
この結果、教会に分裂や混乱が生じているにも関わらず、満足している。
最近アイフルのCMで聞きますね。「そこに愛はあるんか?」
1コリント13章でパウロは次のように述べています。
「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(1コリント13:1-3)
「愛」という存在を見失えば、どのようなこともむなしいものになってしまいます。
そのことに気をつけなければ、すぐに忘れてしまいます。
目まぐるしく動く世界の中で、多忙な日常の中で、やらなければならないことが山積みの中で。
それでも「愛」を忘れてはならないのです。
この御言葉を受けて、私たちは改めて「愛」を持って人々に接するものでありましょう。
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