「交わりと喜びのために 」Ⅰヨハネの手紙 1〜4節
「こんな良い月を1人で見て寝る」
明治-大正時代を生きた俳人・尾崎放哉(1885-1926)の句です。月の幻想的な美しさを眺めながら独り占めにしている嬉しさを感じ、その反面、喜びを共有することのできない寂しさを表している句と言えます。放哉自身が望んで孤独を選んだにも関わらず、寂しさを感じてしまう。そんなどうしようもない人間性を表している一句と言えるでしょう。
これから皆さんと見ていくヨハネの手紙第1(以下、Ⅰヨハネ)は、12使徒の1人であるヨハネが西暦90年前後に書いた手紙と考えられています。今回は、冒頭の1-4節を取り上げて、3つのポイントに注目したいと思います。 ** 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」(Ⅰヨハネ1:1〜4) **
1.いのちのことばについて
ヨハネは、まず「いのちのことば(ギ:τοῦ λόγου τῆς ζωῆς)」について話しだします。「ことば(ギ:λόγος)はイエス・キリストを指し示す為に、使徒ヨハネが用いる表現です(ex.ヨハネ1:1、1:14、黙示録19:13)。ですが、此処での「いのちのことば」は、神の子イエスではなく、福音そのものを指し示しています。私たちが信じる福音とはいったい何か。そのことを1-2節で、ヨハネは説明しているのです。 「初めから」というのは、世界が形作られる以前、神が支配する無限の時間。その初めから存在した、という意味です。そして福音の中心は、御子イエス・キリストです。イエス・キリストは御父と共に初めから存在しました(1:2)。 そして、イエス・キリストが歴史上に現れたことにより、使徒であるヨハネはイエスの言葉を「聞いて」、その姿を「見て」、時に「じっと見」、そしてその体に「触る」ことができたのです。これは、御子が実際に肉体を持ちながら地上に存在し、そこで弟子たちと共に生活をし、十字架に架かり死に、しかし甦った、ということの強調でもありました。 歴史に介入し、今も生きている神の子イエス・キリストを信じるが故に、私たちは永遠のいのちを与えられています。それは使徒ヨハネの宣言通りであり(2節)、その為にこそ御父は御子を人々に与えたのです。この「いのちのことば」こそ、私たちクリスチャンの大きく太い中心軸と言えるでしょう。福音があるからこそ、私たちは神との関係が回復され、永遠のいのちを持つことになったのですから。 2.交わり
「いのちのことば」について語ると、次に「交わり」についてヨハネは語ります。交わり、という言葉は一般的にクリスチャンが多用するものです。では、交わりとは一体なんでしょうか。原語では、「κοινωνία(コイノーニア)」、「共通のものを共有する、分かち合う」という意味があります。
他人と仲良くなる為の秘訣は、「とにかく早く多くの共通点」を見付けることだそうです。見知らぬ他人同士であっても、何か一つ共通点を見付ければ、それを共有し、仲間となります。共通点をキッカケにしてお互いの関係が築き上げられる、ということです。 ヨハネは、3節で「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」と言いました。私たち(クリスチャン)の交わりは、神との交わり、つまり神との関係によって与えられたいのちを共有し合っているのです。 謙遜の文化を持つ日本人にとって、自慢という言葉はとても遠慮したいものでしょう。見栄を張りたい自慢もあれば、一転して不幸自慢もあります。しかし、私たちは率先して自慢すべきものをすでに持っています。それが「神との交わり」です。神との交わりは、独占するものではありません。絵画のように頑丈なケースに入れて、傷つかないように、そっと鑑賞するものでもありません。神との交わりは、多くの人と分かち合う為に存在するのです。ヨハネが交わりを持つように伝えたものこそが、私たちが共有するいのちなのです(3節)。
3.全き喜び
最後に使徒ヨハネは、「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」と言いました。この文は、「私たちが喜びに満たされるためです。」と、言い換えてもいいでしょう。喜びに満たされる秘訣、それこそが交わりなのだ、とヨハネは宣言します。 冒頭の尾崎放哉による句が良い例ですが、人は良い事があればそれをシェア、話を聞いて欲しくなります。もしそうでなければ、妻の話を聞かないことが理由での夫婦喧嘩は起きないでしょう。共有し、それによる共感を得ることで、自分の体験したことによる喜びが増幅されるのです。逆に、たとえ素晴らしいものを持ちながらも、その喜びを共有できないのであれば、本来持つはずだった喜びよりも少なく、小さなものとなってしまいます。 聖書は、神との交わりと同時に、クリスチャン同士の交わりも強調しています。どちらかが欠けても、それは不完全です。神との交わり、そしてそれを共有し合うクリスチャンの交わり。この2つこそが、福音の目的であり、使徒ヨハネがこの手紙の最初に書き記した理由です。
日々の中で、喜びを感じることが少なくなっていると感じたのであれば、そんな時こそ交わりの中に身を置いてみませんか。私たちは、神との交わりを中心にするからこそ、喜びを得て、またそれに満たされます。時に楽しみを共有し笑い、時に悩みを分かち合い共に苦しみ、疑問を吐露して祈り、悲しみを打ち明けて励まし合う。それが、クリスチャンの交わりです。
執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀
1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ
宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒
現在、峰町キリスト教会牧師
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