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  • 鈴木孝紀

私たちを助けてくださる方(2017.11/18栃木EMFにて)


みなさん、こんにちは。

湯たんぽの助けなしでは朝が辛くなってきました。みなさんも暖房器具に助けられる季節になったのではないでしょうか。

Ⅰヨハネからの分かち合いも、今回で3回目です。

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための-私たちの罪だけでなく、世全体のための-なだめの供え物です。 (1ヨハネ2:1-2)

1.罪を犯さないようになるために

ヨハネは「私の子どもたち」と、この手紙を読む人々に語りかけます。このようにヨハネが呼びかけたのは、彼が高齢で年長者であったということが理由ではありません。これは、ヨハネと読者との間に親密な関係があり、ヨハネ自身が読者である人々に対して抱いている「愛情」を示すための言葉でした。

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ヨハネは読者に対して特別な愛情を抱き、愛しているからこそ、1章の言葉を語り続けました。その言葉は厳しい口調を含みながらも、その根底には神の家族であるクリスチャンに対しての愛があります。「愛の反対は無関心です。」という言葉はとても有名ですが、ヨハネの愛はその通り、彼らに対して無関心では居られませんでした。

ヨハネは、ここまで語り続けた理由をこのように述べます。1節「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」ここまでの箇所には、本屋さんでよく並んでいるような「これから罪を犯さなくなる方法100」といったものは書かれていません。

書いてあるのは、神は光で、私たちに隠し事をしないこと(1:5)。イエスが流してくださった血によってきよめられていること(1:7)。そして私たちが神とその家族との交わりの中に生かされている(1:3)、という事だけです。

これらのことだけ、ですが、「これらのこと」が私たちの土台ではないでしょうか。「あれを守りなさい。これを守りなさい。」といったリストではなく、私たちが信じる神がどのような方で、その神のひとり子であるイエスが何をしてくださったのか、私たちは今どのように変えられたのか。それを日々知ることこそが、罪を犯さなくなるための最短距離なのです。守るべきことのリストで人は変わりません。神を知り、自分を知ることによって、結果、溢れてくる感謝と喜びがエネルギーになって、人は変えられていくのです。

2. 助けてくださる方、義なるイエス・キリスト

しかし、人は完璧ではなく、欠け・弱さを持っています。だからこそ、無意識に、時に意識的に、神から遠ざかり、罪を犯してしまいます。罪を犯した時、私たちを神に訴える存在が二つ居ます。1つは「悪魔」(ゼカリヤ3:1)、もう1つが「自分自身」(1ヨハネ3:20)です。時折私たちは、悪魔以上に自分自身を責めてしまうことがあります。「なぜこんなことをした。なんで出来ないのだ。私なんてもうダメな存在だ。」と。まるで罪を犯したことへの埋め合わせをするかのように、自分を責めて、傷つけて、ボロボロになることがあります。

十字架

罪の埋め合わせにふさわしいものは、「いのち」でしかあり得ません。それは旧約時代から今まで変わることのない原則です。私たちがどれだけ自分を責めたとしても、自己憐憫以上にはなり得ません。私たちの方から、犯した罪に対して出来ることは何一つないのです。だからこそ、私たちの罪のため、いえ、人類全体の罪のための「なだめの供え物」として、イエス・キリストは十字架に架かられました(2節)。私たちには埋め合わせる方法がないからこそ、イエス・キリストは、代わりにいのちを捨ててくださったのです。

2節には「私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」と書いてあります。「弁護する方」のギリシャ語は「Παρακλητος:助け主」という言葉です(ex.ヨハネ14:26)。イエス・キリストは、私たちを八方塞がりに思えた罪の支配から助け出してくださりました。ですから私たちは、訴え責める悪魔や自分自身の声ではなく、「あなたは不完全だが、素晴らしい存在なのだ。」という神の声を選び取りましょう。そして、神に対する感謝と、罪の支配から助け出された喜びによって、神に従う人生を歩んでいきましょう。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

#ヨハネ #鈴木孝紀

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