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執筆者の写真鈴木孝紀

惑わされてはいけない(2018.9/22 栃木EMFにて)


 みなさんこんにちは。先月の賛美集会は本当に恵みを感じるひとときでした。感謝です。さてまたヨハネの手紙に戻って、今日は1ヨハネ3:4-9をともに見て行きましょう。 ** 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。(1ヨハネ3:4-9) **  私には年の離れた姉が2人居ます。相当に可愛がられて育ったのですが、長女がどちらかというとイタズラ好きでして、よくからかわれました。ある日、スーパーに行くと、出来立てアツアツで、かつお節がユラユラ動いているたこ焼きがあります。そんなたこ焼きをじーっと眺めていた小さい頃の僕をみて、姉はこう教えてくれました。「このユラユラ動いているのはね、実は生き物で、熱くて動いているんだよ。」それからしばらくの間、たこ焼きを僕は食べることができませんでした。

いたずらを考えている様子

 また別の日には、お寿司屋さんに行き、茶碗蒸しが出てきました。姉はこう言います。「これはね、茶碗蒸しって言うんだけど、茶碗蒸しの『むし』は、虫の『むし』なんだよ。」茶碗蒸しも、しばらく食べられませんでした。  幼いがゆえ、ものの見事に姉の嘘に騙された私です。

1.惑わされてはいけません  さて、そんな私が本日取り次ぎたいのは、「惑わされてはいけない」というメッセージです。この「惑わす」という言葉は「誤った道に導く」と言い換えることができます。神様に至る唯一の道であるイエス自身が、弟子たちに「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大勢現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」と語りました(マルコ13:5-6)。  ヨハネも、この手紙を読む人々にこう語り始めます。4節「こどもたちよ。だれにも惑わされてはならない。」この手紙を読む教会では、いくつかの惑わしが入り込んでいました。例えば、イエス・キリストは人間として生まれてはいない、だったり。特別な人にしか神様は自分自身を教えない、であるとか。イエスと文字通り一緒に生活をし、その声を聴き、その姿を見てきた弟子ヨハネにとって、こういった惑わしは許されないものでした。

2.義の行いを否定する惑わし  そして今日取り上げたいもう1つの致命的な惑わし。誤り、嘘が教会に入り込んでいたのです。それは「クリスチャンは、義を行わなくても良い」という考えです。ハッキリと言いたいのは、それは誤りだということです。 神様は、私たちが義を行うことを願っています。もちろんそれは義務でもなければ、それをしなければ救われません、と言った話ではありません

信仰

。それはパウロが「義人は信仰によって生きる。」と書いてある通りで、私たちが永遠のいのちを与えられたのも、それに生かされているのも、まさに信仰によってなのです。断じて、自らの行いや義によって与えられたわけでも、生かされているわけではありません。しかし、神様は私たちに義を行うことを求めています。  聖書の言葉を使ってこの誤りを支持する人もいます。「人は上辺を見るが、神は心を見られる。動機が大切なのだから、その動機ができるまでは行わなくて良い。」この意見は、とても正しく聞こえます。しかしこの聖句は、神様が上っ面では判断しない方であることを説明していて、だからこそ、表面も心の中も一致させなさいという意味です。決して、義を行わないことへの言い訳として使われるものではありません。 さらにこれが悪化すると、「クリスチャンであっても、罪の中に留まっていて良い。」という、ヨハネが何回も繰り返して伝えてきたメッセージと真逆の考え方に行き着きます。これこそが、この手紙を読む教会が陥った誤りでした。

 しかし、ヨハネはこう言います。9節「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。」神様が信仰によって与えてくださった聖霊によって、私たちはもう罪の中に留まることに対して、以前のように平気ではいられません。平気でいられるのは、ヨハネが8節で語ったように「悪魔からでた者」だけなのです。

 そして神から生まれた者には、9節「神の種がその人のうちにとどまって」います。この神の種というのは、「神の霊、聖霊」のことです。聖霊は、ただ私たちに罪を認めさせるだけでなく、私たちに義を行う力を与えてくれます。神様が願っていることは、決して無理難題ではありません。しかし、人の力には到底不可能なことです。神の子イエス・キリストが、罪の支配から私たちを救ってくださったからこそ、私たちは聖霊によりたのみましょう。そして罪に留まるのではなく、義を行う生き方を歩みたいと思います。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

鈴木孝紀牧師

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

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