みなさん、こんにちは。1ヨハネも後半に入りました。今回と次回で「兄弟を愛する」ということを見ていきたいと思います。
** そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(1ヨハネ3:10-15)
**
1.兄弟を愛しなさい 今日の10-15節では、ヨハネが「義を行うこと」の具体的な例を取り上げています。それが「兄弟を愛する。互いに愛し合う。」ということです。
詩篇131篇に「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」という言葉があります。しかし、その言葉が記されている聖書に登場する実際の兄弟たちは、この言葉のように必ずしも生きられたわけではありません。 例えば、今日の聖書箇所にも触れられている最初の兄弟、カインとアベルは、兄であるカインが弟アベルを殺害するという結末でした。また、エサウとヤコブ兄弟も、長子の権利が原因となって争いが起きます。さらに、ヤコブの子供であるヨセフは、ほかの10人もいる異母兄から憎まれ、奴隷として売られました。兄弟という近しい関係だからこそ、嫉妬や僻み、時に憎しみといった感情が沸き起こるのでしょう。現に、先に挙げた兄弟関係には、それぞれハッキリとした殺意がありました。 現代においては、相続問題などが原因で、兄弟間の関係が悪化するということがあります。こう考えると、すべての兄弟が幸せな関係を築いている。愛し合っている、とは言えないでしょう。 さて実の兄弟達がそのようであることも考えながら、今日の御言葉を考えましょう。この箇所で言っている兄弟とは「神の兄弟」です。
つまり、自分と同じようにイエス・キリストを主であると信仰している神の家族を指しています。ヨハネの理解では、神の家族を愛さないというのは、神の子が持つ性質とは逆でした。14節で「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。」とあります。神の子は、同じ神の子供を愛する。神の家族が愛し合うというのは、罪の性質からは生み出されない。神から与えられたいのちによるのだ、と彼は語るのです。
2.永遠のいのちに留まる ここまでの御言葉を読んで、「あれ、私って大丈夫かな。」と思う方も居るでしょう。教会にも様々な人々が集まります。人が集まれば、自然と問題も生じます。相性が合う、合わないであったり、考え方が異なったりで、ぶつかることもままあります。苦手な人が存在したりするのも、ある種自然なことでしょう。しかし、そのような現実を受け入れつつも、御言葉がどのように語っているのかを知っていただきたいのです。 14-15節「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」 このヨハネの主張は、大それたものではありません。主イエス自身も、弟子達に対して「わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と言いました。 神の兄弟に対する怒りや憎しみという感情は、いのちではなく死を、私たちに与えてきます。ここでの「死」というものを、ほんの小さな悪影響というレベルで考えないで欲しいのです。ちょっとした日常のストレス。
よくあること。明日になれば忘れているわ。その理解であれば、死とは大げさな表現でしょう。しかし、怒りや憎しみというのは、私たちにとっては「死」です。それは、神との関係が徐々に壊れていくことを意味しています。怒りや憎しみを覚えることが死なのではなく、そこにとどまってしまう。それを誰にも、神にさえも打ち明けずに切り離してしまう。永遠のいのちとは、神様との親密な関係、交わりです。その交わりが破壊されてしまう。これこそが、私たちにとっての致命的な「死」です。怒りと憎しみにエネルギーを持っていかれて、神様よりも優先されてしまう。それはヨハネがいうように、確かに「死のうちにやどっている」状態なのです。 怒りと憎しみを抱えているなら、その時こそ、神に近づいて下さい。それらの感情を、神様に打ち明けて、交わりをして欲しいのです。ひた隠しにしようとするのではなく、オープンに神との交わりを続けてください。そこにこそ、私たちを生かす永遠のいのちがあります。
執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀
1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ
宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒
現在、峰町キリスト教会牧師
Comentarios