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  • 執筆者の写真鈴木孝紀

私たちは、行いと真実を持って愛する(2018.11/3 栃木EMFにて)


 みなさん、こんにちは。今日は、1ヨハネ3:15-18を見ていきましょう。タイトルは、「私たちは、行いと真実を持って愛する」です。前回、神の兄弟を愛するというのは、神の子供(つまりクリスチャン)の性質であること。そして、神様は家族同士が愛し合うことを望んでいること、を見ていきました。今回も「兄弟を愛する」ということについて、ともに学んでいきたいと思います。 ** キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(1ヨハネ3:15-18) ** 1.兄弟を愛することの意味  16節「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」と、ヨハネは言いました。これは、言い換えれば「それまで私たちは愛がわからなかった。」ということです。どうでしょうか。「愛」という言葉は、世の中に溢れています。その中で育ってきた私たちは、「愛」という言葉も知っていますし、どのように使うかも知っています。しかしヨハネは、「あなた達は、愛がわからなかった。」と言いました。

 逆に、いつ私たちは、愛がわかったのでしょうか。それは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。」という信仰が、私たちの内側に宿り、口を通して告白されたその時です。パウロが、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる(ローマ10:10)」と語っているこの時。この時に、私たちは初めて愛がわかりました。なぜならこの瞬間こそ、愛と呼ばれる神様(1ヨハネ4:16)を信じ、その神が、聖霊を私たちに与えてくださった時だからです(1コリント6:19-20)。愛がそれまではわからなかった私たちが、愛である神と出会った。その結果、今私たちは愛がわかっているのです。  ここまで「愛」という言葉を多く使ってきましたが、大切なのは「愛とは何なのか」でしょう。ヨハネは同じ手紙の中で、こう語りました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(1ヨハネ4:9)」「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」。16節でも「キリストが、私たちのためにいのちを捨てた」結果、私たち人間が愛をわかった、とあります。つまり、愛とは「自己犠牲」であり、イエス様が私たちの為、いのちを捨てたように、「私たちもいのちを神の兄弟のために捨てる」ということです。これが、兄弟を愛することの本質的な意味であり、ヨハネが手紙を通して私たち神の兄弟に伝えたいことでした。 2.行いと真実を持って愛する  「口先だけ」とgoogleで調べると、「口先だけの男の特徴」​​とか「口先だけの男を見分ける方法」とか、「口先だけの男にうんざり」という記事がヒットしました。あれ、口先だけって言葉は男の専売特許なのだろうか、と少し焦ってしまいましたが、女性でなくても、口先だけというのはうんざりしてしまうでしょう。ヨハネも「ことばや口先だけで愛すること」は、クリスチャンがすべきでないこと、と考えていました。なぜなら、ヨハネが知っている神は、ことばや口先だけで愛することをせず、そのいのちを捨てることによって、私たち人間へ愛を示したからです。

 イエス様の愛は、十字架でいのちを捨てるという行いと、それほどまでに私たち人間を愛しているという真実が同居していました。私たちは、どちらか片方だけを重要視しがちです。行いをしていれば出来たクリスチャンだと見てしまいがち。もしくは真実さを重視するあまり、兄弟を愛さない口実としてしまう。どちらか片っぽだけというのは、非常にアンバランスな状態で、それはここまで述べられた愛とは異なります。行いと真実が一致した愛、それこそが神の愛であり、まず私たちに注がれた神の愛なのです。 ​​

 私たちは、神様が示してくださった自己犠牲の愛によって、​救われた者です。イエス・キリストが十字架で捨てたいのちによって、今生かされているのが私たちです。だからこそ、私たちもイエス様を模範とし、行いと真実を持って兄弟を愛する生き方を目指していきましょう。神様が示してくださった愛は、私たちが神の兄弟を愛する時、誰の目にも明らかなものとされます。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

鈴木孝紀牧師

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

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