聖書やイエス様のことを微塵も知らなかった少年時代、「生まれ変わるなら何になりたい。」ということを無邪気に考えた記憶があります。今では「生まれ変わり」を信じていませんが、webで検索してみると今なお「生まれ変わり」は日本人にとって根強いテーマだと感じます。
現在クリスチャンである私たちは当然、輪廻転生に類する死生観を持ってはいません。しかし来世ではなく、この世にあって私たちは「生まれ変わり」を経験していることを今日の箇所から考えて行きたいと思います。
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イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:1-5)
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1.人は神によって新しく生まれる
使徒ヨハネは1節で「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。」と語りました。この「神によって生まれた」というのはこの肉体の誕生ではなく、霊の誕生を指しています。
イエス様は、律法学者であるニコデモとの会話において、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ3:3)」と語り、「神によって生まれる」ことの重要性を強調されました。しかし教師と呼ばれたニコデモさえ、イエス様の語った言葉を不思議に思い、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。(ヨハネ3:9)」とイエス様に尋ねます。
使徒ヨハネ、またイエス様自身も「イエスを信じた者は、神によって新しく生まれ変わる。」と語りました。しかしながら、クリスチャンではない人だけでなく、クリスチャンの私たちも「どうして、そのようなことがありうるのか」という疑問に時折ぶつかります。それはきっと自分の内側を見たとき、神によって生まれ変わったとは思えない自分を発見した際に起こるのかも知れません。かくいう私もそのようなことを考え一喜一憂した経験があります。
更に、使徒ヨハネが語った「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します(1ヨハネ5:1)」という言葉は、ややもすれば、この手の疑問を加速させるでしょう。
ここで思い出して欲しいのは、どのようにして人は神によって生まれ変わるのか、という点です。隣人を愛した者が生まれ変わるのでしょうか。自分を律し、聖い生活をした信者が生まれ変わるのでしょうか。逆の言い方をすれば、自分に至らない点がある段階では、まだ人は神によっては新しく生まれた者ではないのでしょうか。
2.神によって新しく生まれる目的
使徒ヨハネは初めから「イエスがキリストであると信じること」によって、「人は神によって新しく生まれ変わる」と語りました。そして1節の後半から、生まれ変わった者の性質を述べています。その性質は、神から与えられた「主と兄弟を愛しなさい」という命令を重荷とする事なく守る、という物です。
命令、という言葉に強制的なニュアンスを感じる人もいるでしょう。しかし神は、「重荷」としてこの命令を与えたわけではありません。重荷であるのなら、それは「すべき」ことであり、私たちに選択の自由は存在しません。ですが、この命令は神からの願いであり、同時に、神によって生まれ変わった私たちの願いでもあります。
イエス様を自らの主であるという信仰が与えられ、以前であれば気にも留めなかった神との関係、兄弟姉妹との関係が大きなものと変わったでしょう。そして自然と、それらの関係において「神様が望むことをしたい」と考えます。誰かに強制されたのでもなく、ふと内側にそのような願いが出てきた。元々人に備わっていたのではなく、新しく生まれた性質から湧いてきたものです。
私たちは、神によって新しく生まれた者です。それは、行いで勝ち取ったものではありません。ただ「イエスをキリスト(メシア、救世主)である」と信じたこと信仰によって、私たちは生まれ変えさせられました。そこに私たちが誇るところも無ければ、失望するところもありません。ただ全ては神によって与えられたものです。
執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀
1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ
宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒
現在、峰町キリスト教会牧師
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