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執筆者の写真鈴木孝紀

祈り求めなさい(2019.8/24栃木EMFにて)


 みなさん、こんにちは。今年は冷夏で過ごしやすい、と言われていましたが、蓋をあければ例年と変わらず暑い夏でした。毎年暑いのだからそろそろ覚えても良いはずですが、また来年の夏には「今年の夏は暑いのだろうか。」と言っていることでしょう。

 さて、1ヨハネの手紙も残り2回となりました。今日も、使徒ヨハネを通して神様が私たちに語ろうとしていることを、御言葉から見ていきましょう。

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私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。(1ヨハネ5:13-17)

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爽やかな夏の様子

 使徒ヨハネはここまで、神が一体どのような方で、またイエス・キリストを信じる私たちはどのような存在なのか、を語ってきました。また神様が、兄弟姉妹同士で愛し合うということを、私たちクリスチャンに強く求めていること。同じテーマや言葉を繰り返し語ってきたことを、使徒ヨハネはこう表現しました。13節「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」

 御子イエス・キリストを信じた人間は、それまで断絶していたはずの神様との関係性が回復しました。文字通り「永遠を生きる方」である神と結び合わされたことによって、人はその罪による死から解放されたのです。永遠のいのちとは、B級映画に描かれるゾンビのような存在になる、という意味ではありません。神との関係性の回復。そして、その関係性から流れてくる御恵みと御力によって新しい者へと生まれ変えられることを意味します。

1.祈りの原則

 そのような私たちに、使徒ヨハネは「祈り」について語ります。14節「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」

 ヨハネは、神は願いを聞いてくださる方、という大事な1つの原則を語ります。クリスチャンの中にはご利益主義への反動によって、神に願うことなどおこがましい、と考える人が居ます。しかしながら、ヨハネはそのように考えませんでしたし、イエス様も「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。(ヨハネ16:23)」と語りました。神様は、神の子供とされた私たちの願いを聞かれます。これは、御子イエス・キリストの名を信じる私たちの特権と言っても良いでしょう。

十字架

 しかし、もう1つの大事な原則を見落としてはいけません。それは「神のみ心にかなう願い」という祈りの原則です。神様は、無条件に願いを聞かれる方ではありません。もし無条件に私たちの願いをあれこれ聞くのであれば、神様と私たちの関係性は真逆なものになっています。み心にかなった願いを、神様は私たちの人生に実現させるのです。

 「祈りとは対話である」と、神学校時代によく語られました。どちらかが一方的に話すのではなく、片方が発言し、それに対しての応答がある。このやり取りこそ対話であって、神様と私たちの関係性を育む大切なものです。

 ですから、私たちの祈りは、必ず父なる神様のみ心というフィルターを通ることになります。本来のフィルターによって不純物が露わになるように、私たちの願い求めに混じった自己中心から生じた欲求や、歪んだ価値観が明らかにされます。そして祈りの中で、「神様が望まれていること」、つまり神のみ心を知っていくのです。私たち一人一人が神の御心を知り、またそのことを信仰によって願うのであれば、それは聖書の約束どおり必ず叶えられます。

2.死に至らない罪と、死に至る罪

 祈りについて語る流れで、ヨハネは「死に至らない罪と死に至る罪」に触れています。16節「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」

 もし神の兄弟姉妹が罪を犯していることを知ったのなら、そのことを神に求めるように、とヨハネは語りました。クリスチャンであって罪を犯してしまうことはあります。そして、神様はその罪を悔い改めることを望んでいます。ですから当然、兄弟姉妹が罪を犯していることに関する神への祈りは叶えられます。神様は、悔い改めを起こさせ、罪を犯していた兄弟姉妹は神様との正常な関係に戻ることができます。ヨハネが「神は…、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。」と語った通りです。

 しかしながら、死に至る罪が存在します。それは、「聖霊に対する冒涜(マタイ12:31)」です。イエス様が地上で働かれていた時、当時のユダヤ人たちはイエス様が行われた多くの癒しや奇跡を否定しました。その否定は、見ずに否定したのではなく、目の前で見てその力を知りながらも故意に否定したのです。イエス様自身がそのことに対して、「人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されますが,霊に対する冒とくは許されません。」と語りました。

 聖霊は、私たちに対して真理を理解させる力を持っています。聖霊が働かなければ、私たちは御子イエスに対する信仰を持つことさえできずにいました。

 聖霊の働きや現れというのは、実に多岐に渡っています。しかし、聖霊の本質的な働きは今も変わりません。それは、真理を私たちに教えるということです。もし私たちが真理を知り、そのことを認めつつも故意に否定するのであれば、そこにどのような弁明ができるのでしょうか。真理から離れてしまうのであれば、その先には真理とは真逆に位置する「死」しか残っていません。

聖書、祈り

しかし私たちは、今日も永遠のいのちを持っています。そのいのちは、御子イエス・キリストへの信仰によって与えられたものです。そしてこの信仰は、聖霊の働きによって、私たちの内側に宿りました。このことを感謝しつつ、今日も神に祈り求めましょう。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

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