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執筆者の写真鈴木孝紀

新しい命令とまことの光(2018.2/24栃木EMFにて)


 今日の箇所、1ヨハネ2:7-11では、前半に「古くからある新しい命令」について。後半には「偽教師たちへの警告」といった内容で手紙が書かれています。この箇所から、「新しい命令とまことの光」というタイトルで、共にみことばを味わっていきましょう。

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愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(1ヨハネ2:7-11)

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1.古くからある新しい命令

 昔の常識が、今では非常識なことがあります。例えば、電車や映画館、飛行機の中での喫煙行為が、ほんの20年前までは当たり前のことでした。現在、炎天下の中、部活をする子供たちはこまめな水分補給を欠かしませんが、昔は飲まないことが常識だった時代があります。科学も日々進歩し、昔の常識を打ち砕くような考え方がたくさん出てきます。

 古いもの、アンティークを好む人たちも居ますが、多くのCMやネットの記事で取り上げられるのは、企業が次に発売する新商品だったりします。そんな現代に生きている私たちは、どこか無意識に「古い=悪い」、「新しい=良い」と考えてしまっているかもしれません。

 さて、7節でヨハネは、「愛する者たち。私は、あなたがたに新しい命令を書いているのではありません。」と言いました。その意味は、「私がここまで手紙で書いてきたことは、何一つ新しいことではない。私もあなたも昔から知っている『神を愛すること、隣人を愛すること』。聖書に書かれている古い命令を話しているのだ。」ということです。

 ここでは、古い命令=「みことば、聖書」(ユダヤ教においても聖典とされている旧約聖書)とされています。これは、偽教師たちが主張する「『新しく』特別な人にしか示されていない教え」を前提にした言葉です。つまり、偽教師たちが「今までの人々には明らかにされなかったが、私たち特別な者には『新しい』ものが与えられている」と主張したのを受けて、ヨハネは「そうじゃないのだ。」と反論したわけです。

 さらにヨハネは、昔からの「古い命令」を、キリストにあって「新しい命令」としました。古い命令を新しい命令としたのは、「古臭くて時代遅れの物を守らなければならない」という考えではなく、「主イエスが望んでいることを守りたい、守っていきたい」という前向きな捉え方をさせるためでした。

 そして、私たちがそんな捉え方をする理由は、ただ一つ。主イエスが、まず父なる神を愛し、私たち人間を愛してくださったから。ただそれだけです。「良いことだから、昔からそうだから、周りがそう言うから」ではなく、「主イエスがそのようにしてくださったからこそ、私もそうしたい。」それがヨハネのいう新しい命令を守る理由です。

2.偽教師たちへの警告

 さて、ヨハネは神の愛を持って手紙を書き進めますが、神の兄弟に誤った教えを広める偽教師たちに対しては一貫して厳しい態度をとります。9節では「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいるものは、今もなお、やみの中にいる」とまで言いました。

 ネガティブな感情には、悲しみや焦り、虚しさといったものがあります。憎しみはそんなネガティブな感情の中でも、とりわけ攻撃的でエネルギーのあるものでしょう。エネルギーがあるので、憎しみを糧にして成功することも可能でしょう。しかし、憎しみに付きまとってくるのは「やみ」なのです。11節には、「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。」とあります。

 憎しみの行き着く先はどこでしょうか。旧約聖書のエステル記に登場するハマンいう人物に注目してみます。彼は、ペルシャ王国での大臣で非常に高い地位にありました。王は、大臣であるハマンの権威を尊重するために「すべての国民は、大臣ハマンに跪くように」という命令を王国中に出します。​​しかし、そんな命令が出されながらも、1人のユダヤ人がその命令には従いませんでした。ハマンは憎しみに満たされ、そのユダヤ人1人だけではなく、ペルシャ中のユダヤ人全員を殺すことを考えるのです。ですが、その計画は神の御支配の中、ペルシャ王の王妃なっていたユダヤ人エステルを通して阻止されます。結果、ハマンは王と国に損害を与えようとした者として処刑されることとなりました。奇しくも、彼が処刑の時に架けられた木は、ハマンが最初に憎しみを覚えたユダヤ人を殺そうと自ら用意したものだったのです。

 憎しみに囚われたハマンの行き着く先は、自らに死を招く、そんな最後でした。やみの中では、本当に大切なものさえ見えなくなってしまうのです。私たちは、やみの中ではなく、まことの光であるイエス・キリストの居る光の中を歩めます。やみに囚われなくて良い人生を、主イエスの十字架を通して、神様が用意してくださったからです。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

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