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  • 執筆者の写真鈴木孝紀

神が私たちの内におられる(2019.4/13栃木EMFにて)


みなさん、こんにちは。新年度を迎えましたが、今年度も主にある交わりが栃木EMFでなされて行くことをともに求めていきたいと思います。

さくらの様子

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いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。 (1ヨハネ4:12-15)

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さて、1ヨハネの手紙も4章の後半になりました。ヨハネは12節で、「誰も神を見た者はいない」と語り始めます。私たちは「確かに、神様を直接見たことはない」と認めるでしょう。しかし時に、見えないからこその不安が襲ってきます。それは苦難に立たされている時、また自分の弱さに痛みを覚えている時、外部からの攻撃によって倒れそうな時、誰にでも起こりうる不安です。

使徒ヨハネは今回の箇所で、「神様は、私たちクリスチャンとともに居てくださる。」ということを3つのパターンに分けて話しています。3ポイント注目しますが、結論は1つ、「神は私たちのうちにおられる。」ということです。

1.私たちが互いに愛し合う中で

なんども触れていることですが、神様が私たちに望んでいることは11節にある通り「クリスチャンが互いに愛し合うこと」です。「互いに愛し合う」という行為は、1人では出来ません。必ず自分と他者が居なければ、互いに愛し合うことは成立しないのです。そして他者と関係を持てば、多かれ少なかれ問題が生じます。1人でいる間なら経験せずに済んだことが、他者と関係を持ったことにより、自分の人生に現れてくるのです。本音の話を言えば、他者との問題は心を疲れさせるものが多いです。精神的に疲弊するのは誰もが嫌ですし、ましてやクリスチャン同士、教会内でそのようなことが起きるのは大変面倒だと感じないでしょうか。

しかし、神様はそのような煩わしさの中で私たちに働こうとする方でもあります。自ら面倒ごとを引き起こしたり、他者と衝突したりすることを勧めてはいませんが、それらを理由に交わりを避けることも、神様はお勧めしていません。なぜなら、問題が起きている中で神様は私たちを取り扱い、人の愛ではなく、神の愛によって愛することを学ばせるからです。私たちの関係が築かれるべき土台は、人の愛ではなく神の愛です。神様が私たちを愛してくださった、いや今も愛してくださっているという前提があって、ようやく私たちは互いに愛せるのです。ですから、私たちが愛し合う中で神の愛が現される、というのは当然といえます。そうでなければ、私たちが愛し合うことなどハナから無理だからです。

2.聖霊によって

次に、13節「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」とあります。御霊、つまり聖霊によって、「神様は今日も私たちのうちに居てくださる」ということが分かります。十字架の死が間近に迫るイエス様は、弟子たちに対して「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたの所に来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなた方のところに遣わします。(ヨハネ16:7)」と語りました。父なる神は見えず、また人として来られた神の子イエスさえも30数年でこの地上を去った。見える存在だったのが、また見えなくなる。このことを知った弟子たちの心には、大きな不安があったのです。

ですが、イエス様が語った通り、クリスチャンに対して五旬節の日に聖霊が与えられました。それは、父なる神様が望んでいること、つまり「私たちクリスチャンを決して1人にしない」ということを知っているイエス様が行ったことです。パウロはそのことを大胆にこう表現しました。「あなた方のからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6:19)」。もはや自分自身のものではない。では誰のものなのか。私たちは、神様のものです。

みんなで祈る様子

3.イエスを神の御子である、と告白することで

最後に、14-15節「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」。私たち、とはヨハネを含めた使徒たちであり、イエス様が地上にいる時代をともに生きていたクリスチャンのことを指しています。彼らは、父なる神が人々を救うためにイエス様をこの地上に送ったことを信じていました。そしてイエス様はただの人ではなく神の子であり、そのような方の犠牲によって、神と共に生きて行けるようになったと深く知っている者たちでした。

彼らが告白するように、イエス様が神の御子であると告白する者は、同じように罪から救われ、神と共に生きて行く人生が始まります。私たちも、そうではなかったでしょうか。信じる以前の生き方と、信じた後の生き方は変わらなかったでしょうか。様々な考え方や捉え方が、以前では考えられなかったものに、以前なら遠慮していた物になってはいないでしょうか。

以前の私たちは、いまイエス様を神の御子だと告白することが当然のように思えたでしょうか。いまみなさんが、イエス様を神の御子だと告白するのは当然だと思うのならば、それは神様があなたのうちに居るという大きな証拠です。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

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