愛してはなりません(2018.4/21栃木EMFにて)
- 鈴木孝紀
- 2018年5月10日
- 読了時間: 5分
みなさん、こんにちは。花粉もだいぶ落ち着き、ようやく過ごしやすい季節がやってきましたね。今日は、1ヨハネ2:15-17から「愛してはなりません」というタイトルで、御言葉を取り次がせていただきます。

** 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
(1ヨハネ2:15-17)
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1. 「愛しなさい」と「愛してはならない」 今日の箇所は、多くの人がドキッと驚き、また困惑するところではないでしょうか。15節「世をも世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」 イエス様が地上におられる際、人々に残された命令でもっとも有名なのが、「神を愛し、そして隣人を愛しなさい。」という「愛すること」への命令でした。この命令は、強烈なインパクトを持っています。一見、シンプルな命令ですが、どこまでも奥深い。いざ実践しようとすると、「この命令ほど難しいものはない」。そう感じた方も多いのではないでしょうか。 私たちは、神様を愛したい、と考えるとき、この命令を思い出すでしょう。「そうだ。神を愛することは、他者を愛することなのだ。」そうやって、信仰によってこの命令に従い、多くのクリスチャンが他者のために人生を捧げました。 しかし、今日の箇所でヨハネはこう言います。
「世をも世にあるものを、愛してはなりません。」

ハッキリと、「愛してはならない」と書いてあります。この箇所をどうにかこうにかこねくり回して、「世をも世にあるものを、愛してはならないということはなく、愛しちゃっても良い。」と読むことはできません。「愛してはならない」のです。 こうなってしまうと、聖書が矛盾していると感じる人もいます。同じく使徒ヨハネが書いた福音書3章16節には、「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。一方では「世を愛してはいけない」。しかし、もう一方では「世を愛された」。 この「世」という言葉が、どのような意味で使われているのかを考えると、理解の助けになります。ヨハネの福音書の方では、「世を愛された。」の続きに、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書いてあります。つまり、福音書の方で話題にされている「世」というのは、「人間」を指していることがわかります。対して、手紙では16節「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出た者ではなく、この世から出たものだからです。」

こちらの「世」は、人間を指しているわけではなく、神と相反する存在としての「世」です。ヨハネの福音書12章31で「この世を支配する者」、また2コリント4章4節では「この世の神」と呼ばれている存在がいます。それが悪魔です。そして、その悪魔が支配している世界自体を指して、使徒ヨハネは「世」と呼んでいるわけです。
したがって、聖書は矛盾していません。「悪魔の支配する世界を愛してはならない」という命令と、「しかしその世界に生きる人々を愛しなさい」という2つの命令が、私たちには差し出されているのです。
2. 「3つの道」 この2つの命令を知った上で、私たちには3つの道が用意されています。 ⑴世捨て人として、他者との交わりさえも拒絶する道。 あくまで「世を愛さない」を追求し、そちらに偏って行く道です。世捨て人になれば、確かに「世を愛してはならない」という命令を守ることはたやすいでしょう。しかし、世にいる人々を愛することは非常に困難になります。 マルティン・ルターは、世捨て人として生活するクリスチャンがあまりにも多いことに怒り、このような言葉を残しました。「汝の敵のただ中に神の国がある。そこで、そのことに耐えようとしない者は、キリストの支配によってあることを願わず、友人たちのただ中にいようとし、薔薇と百合の中に座っていようとし、悪人と共にいることを願わず、敬虔な人たちと共にいようとする者である。ああ、汝ら神を冒涜し、キリストを裏切る者よ。もしキリストがそのようになさったとしたら、いったい誰が救われたであろうか。」 ⑵人々を愛そうとするあまり、世さえも愛する道。 こちらの道は、一見すると「寛容」であり、「自由な」ものです。現代では、LGBT問題に協力的か非協力的かということで、企業が評価される時代になりました。協力的であれば「素晴らしい。進んでいる。」、非協力的であれば「ありえない。古い。」そんな評価が下されます。もちろん、LGBTの当事者たちが愛されるべき存在であることは間違いありません。神は、罪人さえも愛される方だからです。 しかし神は、罪を愛することはありません。私たちはこのことを知っていながらも、こう考えます。「これを言ったら傷つけてしまうのでは。もう教会に来なくなるのでは。」何より、「私はどのように思われるのか。ひどい人間と評価されてしまうのではないか。」そんな思いが、内側から出てこないでしょうか。 この道は、寛容という看板を貼り付けた「妥協と自己保身の道」なのです。 ⑶「愛さないこと」と「愛すること」の間で神にすがる道。 そして3つ目の道が、最も困難で、完璧に歩むことができたのはイエス・キリストただ1人の道です。この道を歩み続けるのは、容易ではありません。私たちはいつでも、先の2つの道どちらかにバランスを崩すことができます。 この道は、「愛さないこと」と「愛すること」の間に立たされます。様々な状況や問題に直面し、「この道を歩まなければ悩むこともなかった。」と考えるときもあるでしょう。 しかし、私たちの主イエスは、ゲツセマネで血のような汗を流しながら神にすがりつき、祈り求めました。ですから、私たちも、私たちの思いや願いを遥かに超えた神の御心を、祈り求めることをやめてはいけません。神は、苦しみ、悩み、すがるあなたと共に今日も居られます。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ
宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒
現在、峰町キリスト教会牧師
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