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執筆者の写真鈴木孝紀

とどまり続けなさい(2018.6/23栃木EMFにて)


​​ みなさん、こんにちは。梅雨でじめじめした日が続くと思いきや、日差しの強い日もあり、体調の面でしんどさを覚える季節になってきましたね。信仰面はもちろん、体調面においても神様の守りがありますように。  さて、今回は、1ヨハネ2:21-29を共に見て行きたいと思います。

雨の風景

**  このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのちです。私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。(1ヨハネ2:21−29)

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​​ ある男性が、ペットショップに寄るとオウムがいました。オウムは言った言葉を真似して返してくる不思議な鳥で、男は興味津々で話しかけます。「このアホー」「このアホー」。「このバカー」、「このバカー」。面白いなーと思いつつ、悪口だけじゃ無くて褒めてやろうと考えた男は、「君は格好いいね」と言いました。するとオウムは、「君はそうでもないね。」 正直者のオウムだったのかもしれませんね。  実際のオウムは、意味もわからずに同じ言葉を繰り返すわけですが、人が同じ言葉を何度も繰り返す時、それはちょっとボケ始めたか、もしくは、とても重要な意味を持っているからでしょう。

1. とどまり続ける  今日の箇所、21-29節では、「とどまる」という言葉が6回も使われています。例えば、24節「御子および御父のうちにとどまる」27・28節「キリストのうちにとどまる」という使われ方です。この「とどまる」というのは、原語から見ると継続の意味があり、「とどまり続ける」というのが正確な訳でしょう。  手紙の著者である使徒ヨハネは、28節において、「キリストのうちにとどまり続けなさい」という勧めをしています。教会で幅を利かせるようになった偽教師たちが言い広めている偽りの教え。それによって、信仰から離れようとしている人たちに、「離れるのではなく、とどまり続けなさい」、そのように励ましています。  イエス様ご自身も、十字架にかかる前、弟子たちにこの言葉を残しています。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)  枝が木からいのちを与えられることによって、生かされている。それと同じように、私たちはキリストにとどまり続けることでのみ、キリストが持っている永遠のいのちを共有し、それによって生かされていく。そのことをイエス様も、直接語られた使徒ヨハネも、私たちに伝えようとしているわけです。  24節を見ると、「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。」と、ヨハネが語っています。ヨハネは、この手紙で「救い主イエス・キリストが、私たち人間に永遠のいのちを与えるため、人としてこの地上に来られた」という真理を、繰り返し、繰り返し主張します。この真理を、ある人たちはこう思うかもしれません。「そんなものは以前から知っています。何度も聞いてきました。何度も人に語っています。何を今更そんなことをいうのですか。」 それは、この真理が、私たちに永遠のいのちを与えているからです。この真理が、私たちと神様をつなぎ合わせる唯一のものだからです。この真理がなければ、私たちは神と交わることはできず、私たちにとって大切なものだから、何度も主張したいのです。

​​ 偽りの教師たちは、この点を否定し続けました。「イエスは人ではない。人のように見えただけに過ぎない。十字架で死んだわけではない。死んだように見えただけに過ぎない」。尤もらしく聞こえる言葉で、誰もが納得しそうな言葉です。しかし、彼らは真理では無く、嘘を語りました。そして、これは現代でも常に起きていることです。イエスの復活を否定するクリスチャン。イエスが神であることを否定するクリスチャン。イエスの再臨を否定するクリスチャン。聖書の中だけではなく、今現在起きている問題なのです。

 そして何より、信仰を持っていた友人・知人が、信仰から離れたというニュースを聞くこと以上に、悲しみを覚えるものはありません。ともに神様を喜び楽しんでいた人が、そうでは無くなった。「なぜですか」という思いが、内側から湧いてきたのを覚えています。  そのようなニュースを聞くと、いつも詩篇103篇の言葉を思い出します。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2) みなさん、思い返してください。私たちが神を裏切ったとしても、神が私たちを裏切ったことがあるでしょうか。神から与えられた喜びは、私たちの作り出した喜びに劣るものでしょうか。神との親しい交わりは、文字通り、私たちにいのちを与えるものではなかったでしょうか。​

​   最後に、短いお話を分かち合いたいと思います。  世界的に有名な伝道師ビリー・グラハムは、招かれた夕食会である質問をされました。「あなたが主の働きに長年携わってきて一番楽しかったことは何ですか。」周りにいる人々は、大統領や王室の人たちと知り合ったことや、世界中で何百万人という人々に福音を伝えたこと、など答えを想像しました。しかし、ビリー・グラハムは、このように答えたそうです。  「一番楽しいことは、イエス・キリストとの交わりです。主の臨在を感じ、主の知恵を与えられ、主に導いていただくこと、これこそが、私の最大の喜びです。」  私たちにとって、イエス・キリストとの交わりは、喜びでありいのちです。再び神と出会うときまで、ともにキリストのうちにとどまり続けるものでありたいと思います。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

鈴木孝紀牧師

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

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