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  • 執筆者の写真鈴木孝紀

キリストを証しする御方(2019.7/13栃木EMFにて)

更新日:2020年1月24日


** このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(1ヨハネ5:6-12) ** さて今日の箇所でも使徒ヨハネは、世への勝利者であるイエス・キリストについて、教会の人々にこう語りました。6節「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。」。この「水と血によって来られた」という言葉は何を意味するのでしょうか。考えられる解釈は複数あります。例えば、

・水は洗礼で、血は聖餐式を示している。

・水はきよめで、血は贖いを意味している、

などは、それらしく感じるでしょう。 しかし、「来られた(ἐλθὼν)」という言葉の時制を考えると、解釈としては不適切なことが分かります。この「来られた」の時制は不定過去形で、「歴史的事実、過去に1度あった決定的な出来事」を示す際に用いられるものです。そこで適切な解釈は、

・水は公生涯始まりのバプテスマで、血は公生涯終わりの十字架を指している、です。 この6節で使徒ヨハネが伝えたかったのは、「グノーシス主義が主張しているキリスト論は誤っている」ということでした。グノーシス主義の偽教師たちが主張していたのは、「イエスはただの人間であったが、バプテスマの際にキリストが彼に臨んだ。そして十字架の死の前にキリストは天に昇られた。」というものです。あくまで死んだのはただの人間イエスであって、神であり救世主であるキリストは死んでいないというのを主張していました。

ですから使徒ヨハネは、「水と血によって来られた方」であって、公生涯のバプテスマだけでなく、終わりの十字架も確かにキリストは経験したのだ、と語ったのです。 グノーシス主義の偽教師たちが陥ったのは、人間の理性で理解できないことは何とかして理解できるレベルまで落とそうとしてしまう罠です。神であるキリストは死ぬなんてあり得ないと考え、死んでいないように理解するために誤った考えを持ちました。

これは、私たちにも起こりうる現象です。牧師であり聖書翻訳者でもあるJ・Bフィリップスの著作に「あなたの神は小さ過ぎる」というものがあります。本の要旨は、「神は偉大で人間の理解を遥かに超えた方なはずなのに、あなたが信じている神はなぜそこまで小さく纏まっているのか。」という物でした。自力で神を理解しようとしても、それは徒労に終わることの方が多いでしょう。私たちは、自分の理解を超えたことは文字通り理解できません。では、なぜ神の子キリストに関することを信じているのでしょうか。なぜ人の理解を超えた事柄に関して、「確かにキリストは私たちの為に来られた。」と言えるのでしょうか。 それは6節「あかしをする方は御霊」とあるように、聖霊の力によってです。2章27節でも「キリストから受けた注ぎの油(聖霊)があなたがたのうちにとどまっています。……彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」とあります。神について理解させる力を与えるのは、聖霊によってしかありません。私たち自身が理解するのも、まだ神を信じていない人々が理解するのも、あくまで聖霊の力によってです。 聖霊が今も私たちに証し続けているものは、11節「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということ」です。ペテロの手紙でも「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペテロ3:15)」とあります。この希望は、持っている者にしか説明することはできません。そして私たちクリスチャンは、この希望そのものを与えられ信じている者です。だからこそ、私たちにはまだ信じていない人々に希望に関して説明する責任が与えられているのです。

最後に繰り返しとなりますが、最終的に証をし続けているのは「聖霊」です。私たちが神に関して理解を深めていくのは、自分の力ではありません。神様は私たちに、永遠のいのちという希望を人々へ語ることを求めていますが、それを信じさせるのは私たちの力ではありません。それらは全て聖霊の力によってです。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

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