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執筆者の写真鈴木孝紀

神が私たちを愛した(2019.3/16栃木EMFにて)


皆さん、こんにちは。本日は、1ヨハネ4:7〜10を一緒に見ていきましょう。

3/16栃木EMFの様子

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1ヨハネ 4:7~10

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

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1.神は愛です 今回の箇所は、これまで使徒ヨハネが語ってきたことを繰り返す内容となっています。同じ言葉を繰り返すということは、ヨハネが私たちに「何度も伝えたい!」と思った内容なわけです。

まず、7節の「私たちは、互いに愛し合いましょう。」という言葉は、3:11で「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。」と語られています。イエス様も、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ15:12)」と、弟子たちに言いました。 栃木EMFも、神の兄弟姉妹が互いに愛し合う場所を目指しています。私たちが互いに愛し合う中で神様の愛が現される、と私たちは信じているからです。

7後半-8節「愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」他者に対して、特に神の兄弟姉妹に対して愛を示す者は、神を知り、神によって生まれ変わった者であると、ヨハネは説明しています。 よくよく冷静に考えれば、神様を私たち同士の関係から抜いた瞬間、私たちは全く赤の他人です。同じ場所で集まる必要性もないし、会話する意味もあまりない。きっと、神様が抜け落ちてしまえば、私たちは今の関係になることは無かったでしょう。私たちは、神を知っているからこそ、他者を愛そうとします。そして実際に愛していきます。

ハート

私が神様を信じる以前、クリスチャンの人々が私の祈り課題を聞いてくることに疑問を持ったことがあります。「なぜ赤の他人である私の課題を聞くのか。」「そもそもなぜ他人のために祈るのか。」「きっとそんなノルマみたいなのがあるのだろう。」と考えていました。いまにして思えば、彼らはクリスチャンのためにも祈るし、そうじゃない人のためにも祈る。ただそれだけだったのです。そのために時間を割いて、話を聞き、そして祈るために更に時間を使う。有限であるはずの時間を、他者から評価されることなど関係なく犠牲にする。ここに、神様の愛があります。神様を知らない人は、このような愛を理解するのに難しさを覚えるでしょう。しかしそれは当然です。愛である神を知らないのですから。逆説的ですが、ヨハネが語った「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」の通りなのです。

2.ここに愛がある まだ神様を知らない人から、「神様は一体何なのですか」と聞かれたら、真っ先に答えたいのは、「神は愛である。」ということです。根拠は次の通りです。9-10節「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 2000年前、父なる神様はイエス様をこの地上に遣わしました。イエス様はこの地上で約30年の生涯を過ごしましたが、その間、多くの人々を教え、癒し、そして愛しました。しかし彼は、その生涯の最後を、神に呪われた者が掛るべき十字架の上で迎えます。イエス様が愛したはずの人々は、彼を嘲けり、離れていきました。彼は、正当な評価もされず、愛した者たちから捨てられ、死んだのです。 しかしイエス様の死は、神の愛を最大限に示すものでした。全く無実の者が、罪人の為に、その罪の身代わりとして死ぬ。呪われるべき者の代わりに、呪われた者として死を迎える。イエス様は文字通り命懸けで、神様の愛を私たちのために実行しました。ここに、神様の愛があります。

十字架

いま、私たちクリスチャンが信じているのは、このことです。「神様は私たちを愛している。」「その愛を示す為に、イエス様を地上に送った。」「イエス様は、そのいのちを持って私たちに愛を示した。」「これらのことを信じる私たちは、イエス様が復活した通り、永遠のいのちを持つ。」

10節の言葉は、とても大切なことを私たちに教えてくれます。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」神様の愛は、ギブアンドテイクではありません。私たちがどれだけ愛したところで、神様の愛は変わらない。私たちがどれだけ変わろうと、神様は変わりません。神様は変わることなく、私たちを愛し続けます。その愛は、2000年前にあったあの十字架によって、私たちに示されているのです。

執筆:峰町キリスト教会 牧師 鈴木孝紀

1991年栃木県宇都宮市で、3人姉弟の末っ子長男として誕生 宇都宮大学生1年次に信仰を持つ

宇都宮大学 工学部情報工学科卒 関西聖書学院卒

現在、峰町キリスト教会牧師

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